山口 正司
1997年 9月 1日 月 晴 生き物地球紀行生き物地球紀行というテレビ番組がNHKで八時からある。好きでよく見るが、途中にうとうとする時がある。美しい画面に広がる大自然を見ているうちにくよくよしたことも忘れて眠くなってしまう。
先日箱根へ招待された先で、叔父の小沢さんが、
「生き物地球紀行を見るために残業も付き合いも断って帰る。」
と話していた。番組が始まる音楽が流れてチャコちゃんも一緒に箱根を思い出す。永く企業戦士で、今も、酒も仕事もラグビーも家族も大事にして、この番組を好きだというのが自分にとっては意外で、意外ながらも充分理解できる。
家族の愛情は愛する言葉より何をしたかが大切だ。口で話すより実際は何をしたか、勿論自分に向けての言葉だ。航平はリトマス試験紙のように今愛してくれる人を当てる。
1997年 9月 2日 火 晴 コンプレッサー
故障した自動車を昨日修理工場に持っていくと、原因はエアコンのコンプレッサーの焼き付きらしい。修理費用の見積では11万円から16万円かかるらしい。とりあえずエアコン用のファンベルトを切り放せば走行に支障はないから少し考えるといって帰ってきた。ファンベルトをラジオペンチで切ったが、固くてなかなか切り離せなかった。
エアコンが効かないまま、稼働を続けると焼き付きの原因になる可能性があるらしい。効かなくなったらいつも早めに整備するが、今夏は怠っていた。壊した主因は自分にあるかもしれない。
そのあと近所の整備工場に問い合わせるとおよそ8万円という話し。残暑を抜ければ、来夏までに考えればよいけれど。
航平がプールに行って帰ってからチャコちゃんがマクドナルドのハンバーガーを買いにでる。一個、99円。消費税計算すると100円なら税込み支払い額は105円だが、99円なら103円らしい。100円から一円安いだけだが価値は一円にとどまらないと、ポスターに宣伝されている。なかなか面白い表現でいかにもさすがと思ってしまう。
マクドナルドでは全売り上げ額から消費税計算されるから一円の違いは一円でしかない。結局内税価格で105円を103円に設定したのに外税表示では100円が98円に表示出来ない。マイナスイメージで表現すれば、マクドナルド社にとってはつまらない話しだ。購買意欲を引き出す、広告戦略では「惑わす」、「騙す」、「揺らす」はそれぞれ大切な一つの要素にされている。正直なだけで、売れはしない。
1997年 9月 3日 水 晴夜雷雨 コーヒー
夕方、家族で買い物に出る。駒沢交差点のカド薬局の隣に、しばらく前に新しく喫茶店が出来た。時々この喫茶店で買い物の後に休憩することがある。入り口に近い席に座ると外を走る自動車が航平には楽しみで、エアコンディショナーは心地よい。ガラス越しに外を眺めるとチャコちゃんの公園での友達が買い物に出ている姿が見える。
二人でアイスコーヒーを飲みながら、ちょっとした会話を交わす。店員は愛想が良くて航平にビスケットをプレゼントする。航平は氷が好きで、コーヒーの中に手を入れてしゃぶっている。チャコちゃんはミルクジャーで氷をすくって、航平に与えている。
水の中にも手を入れて、水はコーヒーの色になっている。幸い誰も客はいない。航平の大きい声もそれほど気にならない。ゆっくりと休んだ後、出ようとすると、相変わらず航平は氷に手を突っ込んで遊んでいる。
タオルで航平の手を拭いて、席を立つ。航平は遊びを急に中断され、怒って大声で怒鳴って床に寝転んでしまう。なだめすかせて抱っこして外に連れて行く。
チャコちゃんが
「天使がギャングになっちゃったって言っていた頃が懐かしいわね。」
と言う。
「どうして?」
と尋ねると、
「だってギャングそのもので、あらためて言いたくないわ。」
一日の中でギャングはわずかな時間だ。ほとんどは、かわいい仕草で、取り入っている。
「航平は特別にいたずらじゃないよ。」
と、チャコちゃんは言いながら、航平が食べた後のさんまの残骸は食べた量より多い。子育てすると、親は苦労で老けていくような気もするが、苦労以上の楽しさは今この時もきっとあるでしょう。
チャコちゃんの実家 いとこのミーちゃんと
1997年 9月 4日 木 晴夕方雨 みちくさ
チャコちゃんは新沢さんの曲で泣けたと言う話を聞いて、しばらく前からどんな曲か気になっていたらしい。友達のみっちゃんとも会いたいので、「クレヨンハウス」に一緒に出掛けたらしい。
「クレヨンハウス」(港区北青山3-8-15 03-3406-6492)は東京でも最も優れた絵本ショップの一つだ。チャコちゃんは周期的に行きたくなる所だ。オーナーの落合恵子の責任と自信とポリシーが品揃えの上でも随所に感じられる。
「みちくさ」という名前のそのCDを帰ってから一緒に聞いてみると、聞いてる瞬間にやはり思わず目から涙がでてきてしまう。何故だかわからないが、チャコちゃんに話すと、チャコちゃんはああ知っていた曲だと言いながら、
「この曲で泣ける人は私好きだわ。」
と言っている。辛かったり苦しかったりするときに、ぴんと張った糸がぷつんと切れて、ふうっと自由にさせてくれるのかも知れない。
♪あせらない あせらない♪
♪きみの歩く道が ひとにはみちくさに見えたとしても♪♪あせらない あせらない♪
♪風に揺れる花が 君の来るのを待っていたんだよ♪
みちくさ」 94キロバイト 11秒 au形式
新沢としひこ作詞 作曲
1997年 9月 5日 金 晴 建築説明会
駒沢二丁目の広い国道に面した所に空き地がある。大きい空き地で回りはびっしりとビルや住宅が建っている。800坪ある土地にはビルの建設予定看板が建っていたが、突然土地の真ん中に小さい8階建てのビルがひょっこりと出来てしまった。変な建て方だと思って、残りの土地にどのようにビルが建つのかと思っていた。それからもう5年程建つが建ったビルは幽霊のように空いたままだ。残りの土地も空き地になっている。
きのう、郵便ポストを見ると、ビル建築説明会が駒沢小学校で開催されると書いてある。見るとその土地の小さいビルを壊して、30階建ての高層住宅が建設されるらしい。新築されたビルは誰にも使われずに既に壊してしまったらしい。
このあたりにも高層ビルはあるが、大体がオフィスで住宅ビルはない。住宅戸数は300戸だから、人口約1000人が新たに駒沢に住むことになる。この近くには幼稚園が少なくて今はゆとりがある唯一の「子供の園幼稚園」の定員40人に
「航平は入れなくなるかも知れないよ?」
と言うと、チャコちゃんは計算して
「大丈夫、三年後だから航平は入っているし、上の子が入っていると下の子は入れるから。」
とチラシを見ながら答えている。けれど、小学校の子供の数も変わるだろうし、テレビの映りや日照権、駐車場問題など多分うちは大丈夫だと思うが、密集した地域に忽然と建ち上がるから、あちこちが騒がしくなりそうだ。建て主はワンルームマンションのマルコーだけれど、全戸がワンルームマンションやペットマンションなんていうことはないだろうね。
1997年 9月 6日 土 晴夕方小雨 かるがも
ゆっくりと朝起きると航平とチャコちゃんはもう既に駒沢公園に遊びに出掛けていた。程なく帰るとチャコちゃんは興奮して、
「池にかるがもがいる」
とはしゃいでいる。なんでもかるがもを見るので公園中が噂しあっているらしい。かるがもは母がもと何羽かの子がもで
「お父さんはいないねえ。」
と噂しているそうだ。
「お父さんいるなら出ていらっしゃい。」
なんとなく自分の家族の身に例えて父が居ないのは気になるらしい。夕方になって、私も一緒に噂のかるがもを見に行った。シンボルタワーの下の池の中にある花壇の中にちゃっかりかるがもの親子が休んでいる。花壇と池にはかるがもが通るために階段が作られている。噂の通りお父さんはいない。
かるがも一家はよくニュースで見るが、何でそれが、ニュースか分からないこともあった。百聞は一見にしかずというけれど、実際に自分の目の前にかるがもを見ると、それは充分に自分にとっては一日のビックニュースに値する。
かるがももそうだが、自然の物が偉大だなと感じるのは色だ。人工の作りのものは単色できっちりとした色になっている。ペンキで塗られたフェンスとか、建物の壁はじっと見ていると目の中の一つの色だけを感知するかのように視神経か何かが、疲弊するように長い時間は見ていられない。くたびれてしまう。大体フェンスをじっと見ている人もいないだろうけれど。
ところが自然の品々、木でも動物でも植物でも、葉っぱの一枚は、一つの緑色に見えるようでも家でスキャナーで読みとってみると拡大していくにつれ、格段に多色の色彩で構成されている。
緑も一つの色ではないことに驚いてしまう。だから葉っぱをどれ程見ていても飽きたらない程に見ていられる。各種の神経がまんべんなく休まっていくような、心がなごむような気持ちになってくる。
私が今書いている、マッキントッシュのディフォルトの画面はまさにそんな自然物のような複雑な色調になっている。製作者も同じことを考えたのかなとも思いつつ、ディフォルトの画面は目に優しく感じる。
きのうはアンケートにたくさんの方のご署名、ご意見ありがとうございました。実際に皆様からいただく生の声は大変に貴重で励みになるものでした。これからのホームページ作りに参考にさせていただきます。引き続き、家族共よろしくお願いいたします。
この文章はこの机で書かれています
1997年 9月 7日 日 晴 かわる
晴れた心地よい休日だ。午前中、チャコちゃんは航平を連れて駒沢公園にかるがもを見に行った。私は先週から少し疲労気味のところもあって、起きてみると既に出掛けた後だった。
昨夜少しチャコちゃんと言い争うことがあった。他愛もないことだけれど、引くに引けなくもなって、それが、まだ尾を引いていた。天気のいい休日も会話なしで一緒にいる程苦しい時間はない。
チャコちゃんは帰ってから会話も交わさず、航平と一緒に休んでしまった。普段はコンピューターに向かうのは楽しいことだが、休日まで一日中向かえる筈もない。一人で外に出ようかとも思うが、外は家以上に孤独だ。
夕方4時頃から互いに話してみた。話すといっても詰まらないことばかりを聞いたり、しゃべったりするばかりだ。大体けんかといっても原因は大したことでもない。
しばらく話していると段々わだかまりもとれて笑顔も出てくる。火事と喧嘩は江戸の花というけれど、これからチャコちゃんと一緒に生活を続けるのに喜怒哀楽はなるべく等しく味わいたい。喧嘩は辛くて苦しいが、自分がそれほどに相手を求めていることでもあって、チャコちゃんにしても心から私を求めているからこそ、感情が理性を越えて爆発してくる。愛していなければ決して怒りもない筈だと思う。私も過去を思うとき良い思い出と辛いできごとが、かわるがわるに頭の中を交錯することがある。きのうからの辛いできごともいつかは良い思い出にかわって欲しい。
1997年 9月 8日 月 雨 せみ
夕方は家族でおむつを買いに横浜市荏田のフィットケアデポまで出掛けた。家族でこの店に来るのは楽しいことだ。チャコちゃんはこの店の清潔さが気に入っている。航平が作る洋服のしみが取れるかなと思ってベンジンを購入。子育てで痛くなってしまった腰のケアに、低周波治療器は、この間チャコちゃんの実家でお義父さんのを使わせて貰って快適だったから。
広い店内を駆け歩いてから、向かいの店、サトで外食。また、通された和室の窓から見えるフィットケアデポのライトアップされた景色は今の時代の思い出だ。いつになったら本当に美味しい所で食べられるかなあとも思うけれど、
「航平が駆け回れる所でゆっくり出来て充分に極楽だよね。」
とチャコちゃんは話す。航平は向かいの自動車ショップのきらきら光る黄色の米国製ピックアップトラックが気になってたまらない。航平が一番好きな絵本は「レッカー車ベニー」で、何回となく、読んでもらうし、一人でもちらちらとめくっている。子供って全体から見る視点よりも小さい、細かな所が好きらしくて、5ミリくらいの自動車の絵を見つけても
「ああーっ。」
と楽しんでいる。だからここで見たレッカー車ベニーと同じ色の明るい黄色いトラックは航平にとって大喜びの筈だ。チャコちゃんが窓の下を見るとセミがいくつか落ちている。
「何年間も土にいてすぐに亡くなっちゃうからかわいそうね。」
と言う。
「永い土の中が楽しい筈だと思うより仕方がないよ。」
と答えながら、一週間のうちに好きな相手を見つけて、子供を残して、めくるめく時を過ごして、最後の姿を見せるともう夏もおしまいだ。
1997年 9月 9日 火 雨後曇 地震
昨日朝地震があった。地震は何度体験しても怖いものだし、真実に大地震に遭遇された方にとって、受けた被害の甚大さは言い尽くせない程のことだと思う。
私は幸いにして大地震に遭遇しないで今までを過ごしてきた。東京圏は大地震が常に想定されていて、住むものにとっても避難場所など気になってはいる。ちなみに私達は駒沢公園に避難することになっている。
子供の頃、父の転勤で長野県上田市に二年間住んだことがあった。ちょうど長野県松代群発地震が発生している頃で到着したその日から一年間近く、ほぼ毎日、震度三から四の地震を数回、毎週にわたって震度五の地震を体験したことがあった。有感地震の回数は一日百回前後あったのではないだろうか。
幸いにして上田市では震度六までの地震はなかったと思うが、震度五の地震は結構よく揺れた。不思議だったのは毎日揺れていると地震もそれほどに恐怖ではなくなっていて、日常生活に差し支えることはあまりなかった。学校の授業の合間でも地震が起きるとすぐに机の下に入るが、終わると全員何もなかったかのように地震について話しもしなかったのは不思議な光景だった。
しばらく地震がない日が続くときなど、最近は少し拍子抜けだと言う人もあって、被害にあった人には不謹慎なことだった。酒屋などは厳重にひもで商品が結わえられていた。どこの家庭も備えていて、特別に被害は家では無かった。しばしば、窓ガラスが割れるには閉口していたようだ。
その体験で一つ学んだことがある。地震の怖さを人より早く認識できる。地震はP波とS波があってP波は小さいが先に伝わってくる。その後に大きな揺れのS波がやってくる。地震は、はじめに「あっ地震だよ。」と思ったあとにぐらぐらと揺れてくる。
それが大きい地震の時には震源が近いので、くらくらっとくる間もなく同時にどーんと大きく揺れる。だから逆に言えば、くらくらっと揺れて、その瞬間にあっ地震だと思う間があれば、その地震はその後どれ程大きく揺れても大した被害にはならない。くらっときてから後、その間が大分あって大きな揺れなら、遠い所では大きな被害になっているかもしれない。
打ち上げ花火の閃光と音との関係のようなものだ。くらっときて、一秒たってまだ自分がしっかりしていられれば、その地震は自分にとっては大地震ではない。はじめの一秒以降の地震の怖さからは逃れられる。
大きい地震は「あっ地震だ。」と認識する間もなく、いきなり、一撃で来る。その瞬間に建物は壊れはじめるのではないだろうか。目の前で打ち上げ花火が爆発すれば同時にふっとんでいるのと同じだ。
震度5の地震は相当に揺れる大きさだが、建物ってなかなか壊れないものだと感心した記憶もある。
1997年 9月10日 水 晴 マックの手入れ
マックの手入れの日だ。特にいつと決まっている訳ではないが、時々行う。この手入れをしないと、いつか、マックは完全にご機嫌を損ねてしまう。
手入れするファイルは大体システムかコントロールパネルに入っている。
まず、システムの中の初期設定フォルダーと機能拡張フォルダーの中から、アンインストールして残されている不要なファイルを注意しながら、一つ一つ取り除く。次ぎに機能拡張マネジャーで拡張機能をオフにする。
ネットスケープナビゲーターの設定の中でキャッシュをクリアする。
再起動する。同時にオプション+コマンド+P+Rを同時に押す(Pラムクリア)。再度再起動される。再起動と同時にオプション+コマンドキーを押す(デスクトップの再構築)。10分程かかる。
機能拡張マネジャーの機能を元に戻す。音声ボリュームを元に戻す。プリンタセレクタをオンにする。メモリ設定でキャッシュを7680Kバイトにする。再起動する。
これで終了。その後、ハードディスクのすべてをそっくりとバックアップして完了。全部が終わると購入時に近いスピードに戻る。ハードディスクの読み込みは目を見張る程に早くなる。新作リスト200の読み込みスピードも早い。これは私が行っている手入れの仕方だ。
しかし、不思議なのはこの手続きはほとんどマニュアルに載っていない。具合が悪くなってアップルに尋ねたとき、一つ一つを親切にゆっくりと教えて貰ってきた。他のユーザーも同様に教えて貰ったと思う。細かい設定を電話の向こうで、一緒に作業しながら、親切にフリーダイアルで優しく教えてくれるコンピューターメーカーを他には知らない。今月出るマックOS8は今の大きい楽しみだ。
1997年 9月12日 金 晴 伝言
先日この日記に関してアンケートを行いました。私の予想以上にたくさんの方に記入していただきました。ありがとうございます。それで、アンケートの集計をしましたので、どうぞご覧下さい。
と表計算にまとめたものを書きはじめたのですが、躊躇してしまいました。個別の数を出してもあまり意味がありませんでした。かえって協力していただいた方を引き離してしまうような気がして、途中まで書いたのですが消してしまいました。
それでは全体にどう自分にためになったかと言うと、ふ〜ん、あっ、そうなんだあ、といったコミュニケーションが予想以上に得られたことでした。今までどんな方かなあと想像していた方とメールでやりとりしたり、久しぶりにお話できた方、良くは知っていてもはじめてメールを交換した方など、懐かしかったり、嬉しかったりしたことが収穫でした。
全体でちょっとした驚きというのは、私はランキングリストからいらっしゃっる方が多いと思いましたが、他の方のリンクから、とお答えになった方が多いことでした。文中のリンクだと想像しますが、とても、効果的なのですね。
それから、年代は若い方からまんべんなくいらっしゃいました。子供はいらっしゃらない方から、子育て中の方も含めてやはり偏りはありませんでした。女性は子育て中の方が多かったです。
1997年 9月13日 土 曇 星
チャコちゃんはお母さんの墓参りに親戚の人が集まるので、航平を連れて川崎の実家に出掛けることになっていて、私が遅い朝に目覚めるともう既に出掛けた後だった。
夕方5時半に自由が丘のロータリーで待ち合わせると航平は会うなり寝てしまった。昼間、近所の子供たちと遊びすぎて、昼寝をしないでいた疲れが帰路に出たらしい。
チャコちゃんは親戚の人達と久しぶりに話すこともあったらしくて、多弁にみんなの様子を話してくれた。
夕食も食べずに航平は九時の今まだ寝たままだ。よほど楽しかったのかもしれない。起きればこれから航平だけの食事と風呂に入れる。
航平が寝ていると夕食も静かだ。七時過ぎからNHKのテレビで星に関する番組を見ていた。宇宙の美しい映像をわかりやすく興味深く伝えた良くできた作りだ。地球以外の宇宙に生命が存在することはほとんど確実なのだろうが、お互いに出会うことは不可能に近い。互いが遠くから互いを星の姿で見つめあっているのは一つの大きなロマンだ。
明日はやはり親戚の家で秋祭りに呼ばれている。子供にとって祭りは楽しい集いだ。
1997年 9月14日 日 曇後雨 秋祭り
昼頃に家を出て、文京区関口の地蔵通り商店街まで、秋祭りを楽しむために、家族で出掛けた。ここには私の母の実家があって、私自身も航平ほどの年の頃からここの祭りを楽しんだ。自分が乗った山車と同じ山車に航平が乗って楽しむ姿は想像すると不可思議な気持ちになる。自分と航平が同化したような、自分が航平の年に戻ったような気持ちになる。
私自身も父が転勤がちだったことから、親元を離れてこの土地に14才から19才までの五年間生活した経験がある。自分も望んで自分の家を離れて、ある意味では恵まれた選択だったが、一年程生活した頃、もしかすると自分はもう両親と生活することは生涯ないかもしれないと、ふと気づいたことがある。15の春だったかもしれない。実際には19才の時家族は再び東京に帰任して、一年間だけ生涯忘れない幸福な生活をした。
敬老の日を明日に控えて、祖母が元気なのは何より心地が良いものだ。航平にとってはひいおばあちゃんがおばあちゃんの替わりになっている。年配になって心地よい風景は航平にとってもまた心地がよいことだ。
祭りの規模そのものは年々衰退していく一方で、大きい御輿のかつぎ手衆は年々活発になっている。御輿の上に人が載って、ゆったりと大きく威勢よくかつぐ様子はここ最近になって、練習する程に訓練された人もいての技量かもしれない。
御輿をかつぐ技は日本人の心の故郷だと感じてしまう。一人で御輿はかつげないし、全員でかつぐときに一人だけ力を抜いてもなんとか進んでも行くが、全員が力を抜くと次第に御輿は下がっていく。不思議に各自が各自の力を見えないところで存分に出して、はじめて様になる。祭りの笛や太鼓の音と喧騒を聞くと産まれる前の自分を感じることもある。
1997年 9月15日 月 曇時々雨 ランチ
正午すぎに三軒茶屋の三宿まで、家族で焼き肉のランチを食べに出掛けた。焼き肉は火が燃える暑さと香辛料とで、とても航平には食べられないだろうと勝手に想像していた。一度航平が産まれた直後航平を抱っこしながらこの店に来たことがあって、韓国の風土からか、赤ん坊に優しくしてくれた。その時のことを思い出して、ほぼ一年ぶりに焼き肉の外食が出来た。
チャコちゃんは韓国料理を大人になるまで食べたことがなくて、独身時代にデートに誘っても拒否されるので、一緒に出掛けたこともなかった。私は特段韓国出身ではないものの、韓国料理の美味しさは海外料理のうちで最も優れた料理の一つだと感じていた。
料理の味一つを元に異国の地で生計を営む厳しさと激しさが味の奥に感じる。ゆっけと言う牛肉の刺身をはじめて口に入れた頃、小学生だったのに一週間も味が忘れられなかったのが記憶にある。
それでも、韓国料理は高価でもあるからなかなか出掛けることもできないし、航平が産まれてからもいつか行きたいと思っていた。次ぎの出産なんて、ふと、考えるといつになっても、もう食べられないような気もする。チャコちゃんは私と一緒になってからは味が分かって私以上に好きになっているから二人とも気持ちがつのる。
勿論そんなに食べたいなら一人ずつで行ってもいいし、お弁当にあつらえて食べてもいいのだけれど、外食のテーブルにつく家族の暖かさが欲しい。昨夜も夜ふかししてチャコちゃんの機嫌を損ねていたし、久しぶりに、また勇気を出して出掛けてみた。
一番の心配はとにかく航平だ。座っているかどうかが問題だ。子供用の椅子にチャコちゃんのズボンのベルトをはずして航平に結わえ付ける。ぱちぱちと言う火がつく回りにはなるべく航平の取り皿以外の食器をおかない。
それで食べはじめると、なんだか、航平も食べている。親の気持ちを察するのか、結構小さく切った肉から、野菜から、甘い汁の少し付いたごはん、胡椒の効いたスープまで、予想以上に食べている。店の人は良く食べるねなどとあやしながらも上手に食べた。航平偉かったねなんて、二人で航平に感謝している。帰宅すると航平はくったりとして、三時間程も昼寝をしていた。
三宿、好香苑(ロード)衣食足りて育児(昨年出産直後の写真)
1997年 9月16日 火 台風 錯覚
台風が近づいている。一日小雨がぱらついて、ニュースは台風の情報を流し続けている。チャコちゃんがニュースを見て、
「非常に勢力が大きく、雨風共に強い台風ってニュースは言うけど、いつも実際に自分の所にはそれ程に強くて困る状況にはならないね。」
と言っている。そう言えば幸いで感謝しなければならないが被害にはそれ程に見舞われたことはなかった。ニュースは台風の被害地域を連続して流しているから日本全体が台風の被害にのみ込まれたように自分自身もつい錯覚してしまう。
一方では、考えてみると停電も心配しなければならないことすら忘れていた。電力会社の新技術の功績にもよるが、前回停電した日がいつだったかも覚えていない。はっきりとは思い出せないが、20年間停電の経験をしていないかもしれない。災害は忘れた頃にやってくると言うから、少しは気を引き締めた方がいいという知らせかもしれない。
ニュースを見聞きしてもなかなか自分の状態を正しく把握するのは難しい。チャコちゃんは
「チョウ大型の台風っていうのも最近あんまり聞かなくなったね。」
と言う。言葉を若者に奪われたのだろうか。航平は一年半検診に出掛けてきた。体重は11キロ、身長は85センチだった。身長は高め、体重は標準で、特別の異常なく、風疹の予防接種を受けた。無事に毎日が送れること程嬉しいことはない。
出生時と一才半 足でごめんなさい
1997年 9月16日 火 台風 錯覚
夕飯時、チャコちゃんに、
「航平が産まれてから、演劇を見に行けなくなっていて大丈夫?」
と尋ねてみた。チャコちゃんの最も豊かな趣味は演劇で、劇団四季が好きだった。
「航平が産まれて、今は行きたいと思わない。劇場に託児もあるけど、そこまでして見たいとは思わない。ただ、将来いつか、航平と一緒に子供のためのミュージカルを見に行けるのを今は楽しみにしてる。」
と答えた。自分は、演劇にほとんど興味がなかったが、チャコちゃんに付き合ううち、チャコちゃんと同じかそれ以上に好きになった。チャコちゃんは「四季」のミュージカルが好きだが、私はシェークスピアが好きだった。シェークスピアが好きと言うといかにも高尚だが、大衆演劇として分かりやすく、良く出来ていて、現代になった今も見ていると涙が出る。新大久保に建つシェークスピア劇場の恩恵が大きかった。
良くできた演劇は、どんな作品も自然に泣ける。涙はどうして出るのだろうと思う。後から思うと、「愛」と「愛」のせめぎあいだと信じている。
何かを愛して求める気持ちと、別の何かを愛して求める気持ちとの両立が出来なくて、求める他方をせめぎあった上、自分からすすんで選択しない決断を下した瞬間に涙が自然に出てくる。
ちょっとしたことでもさっきチャコちゃんが言った、「演劇は見たいけれど、航平を置いてまで見たくはないわ。」と言う言葉も、勘所よく、心に飛び込むと、ふっと涙が出る。
何かに打ち込んでいる時には別の何かが自然に犠牲になることがある。犠牲を選ばざるを得ない状態を分かりやすく心に届けてくれるのが演劇の魅力だと感じている。
1997年 9月18日 木 雨 はし
一日雨だ。台風が再び迫っているらしい。おとといの日に航平はチャコちゃんの食事の時の
「はし。」
という呼びかけに対して、その通りに、きちんと
「はしぃ」
と応えた。今まで自然になんらかの言葉を発していたが大人の発音を真似したのは16日がはじめてだ。連休に出掛けて、刺激を受けたことも理由にあるかもしれない。「はし」に始まった言葉の修得はこの二日間で次々に増えている。
タクシー、アカ、アオ、パン、本、など二文字または三文字の単語で分かり易く、本人が機嫌のいい時は大人の話しに付いて発声する。
発声するのを聞いて、何が嬉しいかと言えば、発声した瞬間にチャコちゃんがわあっと驚いて笑顔になる。笑顔を見て、航平が笑いだす。笑った航平を見て、家族みんなが笑い出す瞬間が気持ちが一致してなんとも言えない心地よさを味わう。
全員が笑い出す瞬間は気持ちが一緒になっている。だから単に「はし」の言葉で喜びや、今までのチャコちゃんの子育ての苦労が報われている。「はし」の言葉で家族を一体感が覆うのかもしれない。笑顔に応えて航平は更に「はし」「はし」と話している。「はし」と言えば私たちがすぐに笑ってくれると信じている魔法の言葉のように感じているかもしれない。
1997年 9月19日 金 雨後晴 未来派
航平を風呂に入れて、チャコちゃんが寝かしつけている間、NHKのテレビを何気なく見ていると、未来派宣言と言う番組が始まった。更に見ていると、キャスターに「森まゆみ」さんが出ている。森さんもすっかり出世したなあと改めて驚きながらもしばらく最後まで見ていた。
森さんは市民参加の呼びかけで三軒茶屋の本をつくろうと言うイベントの時に、本作りを指導しに来た。6人のグループで一ヶ月程の時間をかけて、取材して小冊子を作る過程でつきっきりで、指導を受けた。版下の作成から、細かい印刷技術、取材の仕方、記事を作るポイントを事細かに教わった。
森さんは私が高校を過ごした文京区で「谷根千」というタウン誌を主婦三人で作る内の一人で私と同い年だった。話し方や笑顔はテレビに出ているままで、親しみやすく、理解しやすく、子供を連れながら、子供に話すような優しい人だった。
結局本は、喧嘩をしたり、涙を流したり、喜怒哀楽をいっぱいにぶつけたが、指導の甲斐もあって無事に出来上がった。森さんとの発刊の喜びは今もよく思い出すが、一生涯を一ヶ月で付き合うような密な仕事だったのか、その後は交信することはない。いつでも「谷根千」の編集室にいらっしゃいと言われて、行きたい気持ちはあったものの、一度も行かなかった。年賀状も送ったことはない。
その後、ニューヨークに居た時に朝日新聞のかなり大きな記事に森さんの写真が出た。タウン誌にブームがあった。三省堂に行くと、森さんの「谷根千」が並んでいる。NHKにもニュースの論点など、幾つもの番組に登場するのを偶然にテレビ上に見つける機会が増えた。民放にも見るし、雑誌や、床屋などでふと見る大新聞にもよく見た。
一人のどこにでもいる家庭人だったが、今から思えば森さんは確かに光っていたし、決してどこにも居ない個性を持っていた。どこにも居ない個性を持っている人は大勢いるが、森さんの個性はどこにもないのに、どこにもあるような、極めてまっとうな普通の個性だった。誰からも理解される話し方で、聞いた話が良く分かる、いつも笑顔があふれる、誰からも親しまれる個性だった。
結局、私はこの時の本作りの経験から、今、コンピューター上でも出版業に携わるようになった。私の作品もまた森さんのタウン誌と並んで三省堂に置かれた瞬間もあった。森さんを見るとあれから随分と森さんは先に行ってしまったようで、取り残されたような気持ちに、テレビを見るときには自然になってしまう。今の自分に充分集中していないからかもしれない。いつかは森さんにも今の自分の仕事を話してどんなアドバイスを貰えるか、聞いてみたいと思うことはよくある。
写真 NHKテレビ 未来派宣言 森まゆみ
1997年 9月20日 土 曇時々雨 24時間テレホーダイ
三日程前にチャコちゃんから土、日、祭日に公園に行くときには、一緒に出掛けて欲しいと切実に要望されたこともあって、午前中家族でぶた公園に出掛けた。朝は眠くて太陽の光が眩しくてたまらない。
大体が今の電話料金の体系が、貧困なことに夜11時からコンピューターを接続するのでなければ、タクシーに乗り続けながらホームページを閲覧しているようなもので、事実上、心地よく楽しむことが出来ない。それも、企業体には、特別な制度があって(専用線)、現実に24時間、一人当たりに換算すれば、安価に提供されている。
個人の集合体が国家を形成しているのだから、企業の一人当たりと同様に安い価格で、個人に24時間電話線を開放して欲しい。日本は個人が優先されていない。企業や会社が先、仕事が先で遊びに使う個人は放っておけば良いと思われている。
実際に夜11時以降に回線をつながざるを得ないことで、どれだけ、貧しいコンピューター利用しか出来ないかは、これを読む方は充分に分かる。毎日、毎日のNTTへの恨みは誰も相当に強くなるに違いない。日本最大の利益を上げる会社、それはコンピューター利用者の家庭生活も吸い上げながら得られている。決して耐えるべきではない。
1997年 9月22日 月 曇 墓参り
日曜日は彼岸の墓参りに行った後航平を寝かし付けている内にぐっすりと眠ってしまった。墓参りに行ったのは1995年5月13日以来で、二年以上行かなかったことになる。それ以前はほとんど欠かさずに春秋と出掛けていた。今回は少し事情もあったが、最も大きい理由は航平を連れての日帰りには片道120キロの道のりは少しばかり遠かったことだ。それほどの理由にはならないが、近くなら、今少し出掛けたとは思う。
仏教のしきたりは不思議なことも多くて、寺の墓地管理費は請求がない。こちらから伺って支払うようになっている。それで、一年半の滞納になっていた。滞納しても文句一つ言われる訳ではない。いつもと同じように笑顔で住職は出迎える。便利と言えば都合が良いが、請求されて、口座に支払う規則に慣れきっている。墓参りは管理費を支払うのも目的の一つではある。
まだ近いから出掛けるが、国際化の時代には気持ちが整理できないこともある。墓地まで出掛けるためには管理費の三倍の金額を必要とするが、そんなことは誰にも話す理由にはならない。敬虔でないと自分から証明するようなものだ。
仏教国に産まれ育てばその心得は理解できないことではないが、寺以外ではもう接することはない習慣だ。勿論電話で伺って、書留で支払うことは出来るだろう。支払う気持ちがないのは、仏心が欠けているせいだろうか。済ますと生々とした気持ちにはなった。自分も航平もチャコちゃんもいつかは納まる場所だ。
今日昼間に航平はプラスティック自動車に乗って遊ぶうち、後ろにひっくり返って頭の後ろを階段の壁にぶつけた。大したあたりではなかったが、自動車の取っ手が目に当たったらしく、右白目の外側が内出血して白目が血の色になっている。本人はなんでもないようだが、念のため眼科医院に連れていくと、血は十日程は引かないだろうが、大事には至らなかった。目薬を処方された。毎日毎日が綱渡りだ。
1997年 9月24日 水 曇 「抱いてもいい?」
昨日は岡山からゆずさんが来て、チャコちゃんの友人の康子ちゃんも来て、楽しい一日を過ごした。あまりゆったりとしていて昨夜はそのまま休んでしまった。
航平は最近魔女の宅急便の漫画映画を見るのが好きで、ビデオをじっと見つめている。その後チャコちゃんと私とで、航平をはさんで私たちは床にお尻を着いて座って、航平を抱きながら、少し離れた私の方に宅急便、飛んで行けーと放りだす。こちらで飛んできた航平をしっかりと抱きかかえて、再びチャコちゃんの方に宅急便飛んで行けーと放り出す。チャコちゃんが受けとめて、しっかりと抱きかかえる。
航平は両方で抱きかかえられるのが嬉しくて、きゃっ、きゃっと言いながら笑いながらキャッチボールのように私とチャコちゃんとを行ったり来たりしている。 しっかりとぎゅうっと好きなだけ抱かれて嬉しくてたまらない。
思いだすと、大学生の頃、上智大学の英語教諭のビィレヌーブ先生に連れられて米国にホームステイの旅をしたことがある。ロスアンジェルスに泊めて貰った家族の所で、家を発つ時に、小学生の男の子二人とお父さんとお母さんに見送られるて、皆と握手をした後、お母さんから
「抱いてもいい?」
と聞かれて、
「はい。」
と答えると、小柄で、美しくて優しいお母さんは、家族みんなが見守る中で、私ともう一人の友人とを、それぞれ、力一杯ぎゅうっと抱いた。私は女性からしっかりと抱かれるのは、その時が、はじめてで、びっくりとしていると、お父さんが
「妻は南米の出身だから気持ちが暖かくて情熱的なのが私たちも好きなんだよ。」
と話した。いまだにその時抱かれた気持ちの良さはしっかりと体が記憶している。抱かれるのは誰もが嬉しいことだと思っている。
1997年 9月26日 金 雨後曇 弱音
暑さ寒さも彼岸までのことわざの通り、うってかわって涼しい日だ。このまま冬になりそうな気持ちになる。日の長さも短くなって通りを行き交う人の衣装も寒色から暖かな色合いに変化している。
最近よくチャコちゃんとこの日記について話すことがある。ここに書いてあるチャコちゃんと航平のプライバシーが漏れることへの不安がチャコちゃんにはあるらしい。航平には今自分の意思がこちらから確認できないから、書かれている内容に対して本人は将来心地よいだろうか否かは確認できない。
チャコちゃんはこの文章を最近見ていない。見ていないだけに、自分のプライバシーが自分の知らないところで行き交う漠然とした不安感がどうしてもぬぐえないらしい。
私自身はここに記載した内容をチャコちゃんに見せてから出していた。つまりチャコちゃんと私との共同作業で出来ていた。共同作業ならばチャコちゃんにとっても不安はなかった。いつからチャコちゃんは見なくなったのだろうか。毎日書くうちに内容について意見が合わないことがしばしばあった。例えば、9月22日なら、航平は目に怪我をした。私にとっては大切で、重大なできごとで、ここに書くことで処置の間違いがないかなど不安や心配を解消したいし、沢山の方の目に触れることでアドバイスがあれば受けてもみたい。自然に書きたくなる事象で、チャコちゃんの監督に関する責任を書くつもりはない。だいたい自分もその時一緒に居合わせている。
チャコちゃんとしては航平に関して巻きおこった悪いできごとに付いてはいらない詮索やいらない不安を回りに広めたくはない。すすんで不安の種をまく必要はないと感じるらしい。知らない所で知らない人から航平君の目大丈夫と聞かれれば、どう答えてよいか分からない。知っているのではないかと想像するだけで、不穏な気持ちになるらしい。
それで最近は家族のできごとについて書かないで欲しいと度々請求されることがある。私自身もチャコちゃんと航平と自分が楽で幸せになりたいから書くのであって、自分の行為でチャコちゃんが不幸せになることはしたくない。
だが、自分のことを書くときには自分は家族に属している関係上、どうしても家族の事柄は出てしまう。まるっきり、家族のプライバシーを明かさずに日記を続けることが果たして自分にとって心地良い行動になるかどうかは自信がない。
チャコちゃんと「家族のできごと」の将来について話すと、このシリーズは近く変更するかもしれないし、このまま今までどおりプライバシーを明かしながらも、行くかもしれない。おそらく当座はこのままだろう。ただ前にも述べた通りホームページの存在はいつまでも有り続けることに、チャコちゃんも私も意見に変わりはない。更新頻度など時には休むときもあるかもしれない。そんな時にはここの伝言板に書かれた皆さんの記述が私とここに訪れる皆さんの支えになれば有り難いことだ。
ゆっくりとこれからも自分とチャコちゃんと航平と皆さんとを思いながらこれからも何らか続きます。永い目でご覧になっていただければ幸いです。
1997年 9月27日 土 曇 招待されて
夕方から家族で公園での友達のところに食事に招待されて伺った。航平はゆっくりと昼寝をした後で機嫌が良かった。
家族どおしで交際できるのは航平がいるからこそで、航平が生まれる前に他の家族と交流することはなかった。お互いに子育てするうちに互いを求めて親しくなっている。この交際は将来どんな風に続いていくのだろう。それは航平が仲良く友達づきあいが出来るがどうかにもかかっている。
広く親しく大勢の中での愛情にはぐくまれながら、成長していくためには、私達両親だけの力では無理だ。社会や回りの人々から力を貰って成長している。
家からも一品だけチャコちゃんが作って持っていった。招かれた先でのはじめていただく沢山のごちそうとチャコちゃんの一品とがあわさって、新たにミックスされた食事が口の中に広がる。帰り際に少しだけ、夫婦関係の話しもあった。心の中を他の人とあらいざらい話せることが最近あっただろうか。
別れ際、ホストの彼は彼の妻を抱いて今夜の楽しみに感謝した。同時に私もチャコちゃんに"Can I give you a hug ?"(私も同じようにチャコちゃんのこと抱いてもいい?)と訊ねたりもして笑顔を交わしながら、バギーを押しながら帰路についた。家に着いて、航平は、ダディ、ダディと呼びつづけて眠ってしまった。