山口 正司
1997年 8月 2日 土 晴 抗生剤一昨日から熱が出て動けなくなってしまった。昨日は医院で診察を受けて一日休んだ。風邪らしい。四日分の薬を貰って来週火曜日にまた来なさいと言われたが、飲みはじめると昨日の夜くらいから大分具合が良くなってきた。
処方された薬は四種類とうがい薬だった。くすりの内容が分かる本を見てみた。
トミロン セフェム系抗生剤 感染症
ベロテック 交感神経刺激剤 気管支喘息
ムコソルバン 気管支粘液調整剤
テオドール キサンチン誘導体 気管支拡張剤
うがい薬
のどの痛みが五月から延々と続いていたが、抗生剤の効果か、痛みが少なくなった。平熱には戻らないが、ほとんど、快方に向かっている。
金曜日の午前11時頃、医院で診察を受けている最中に、警察から医師に電話があった。踏切に飛び込み自殺した人がここの診察券を持っていたらしい。病名についての問い合わせだった。医師は驚いたようだったが、その後いつも通りの診察をした。
昼間は一日寝ていたが、チャコちゃんに週間SPAを買ってきて貰った。見知った面々の様子と日記だけでは分からない素顔の側面が出ている。週間SPAは広告と記事の区別が付かない雑誌だ。
寝ながら郵便番号を思っていた。郵便番号が7桁になるが、発送仕訳の時に、行く先郵便局は始めの三桁で決定されるから、今までと変わり無い。受け取り局は町名別に機械仕訳が出来る。町名別に仕分けられた束を個別に仕訳する作業はやはり人の手だ。つまり全国を巻き込む割に、受け取り局が町名別に機械仕分けできるメリットしか郵便局にはない。宛名書きはコンピューターの恩恵を受けて随分楽になる。番地情報まで含んだパーコードが普及すれば大半が機械化できる。
1997年 8月 3日 日 晴 最適数
夏一番の日曜日だというのに発熱で体はまだ良く動かない。チャコちゃんと航平は朝方から公園に散歩に出て、帰って来て風呂場のプールで遊んでいる。判で押したような最近の過ごし方だ。土曜日、日曜日に外出しないと閉じこもりから自分にもチャコちゃんにもストレスが溜まる。
家族で過ごしていると、何の前触れもなく相手のストレスで攻撃を受けることもある。逆に、自分がストレスを受けている時に、家族から、救って貰う時もある。今日の一日は救って貰った日で、一人では苦しいなと感じる。
私は一人で生活している期間が10年以上あったけれど、何の寂しさも辛さもなかったと思う。ただ、家族がある人から一人では淋しいのではないですかと問われるのに閉口した。概ねそんな口調が多くて、繰り返し言われ過ぎるからだ。
今、家族で暮らしていると、もう一人には戻れないと感じてしまう。次に一人で生活するのは、想像することも恐ろしい。気が付いて見ると、あれ程厭だったのに、一人で居る人に、家族を持つように薦める自分もある。
家族は恐らく最適な人数があるのだろうか。一人よりは二人は良いが、嫌いな人との二人は困る。二人よりは三人、三人よりは四人でも良い。それ以上多くなれば、苦しい人と楽な人が出来てしまうようにも見える。貧富の差がある、今の世の中の縮図のようだ。家族が三人から四人が多いのは、最も、最適な人数なのだろうか。
最近の航平の風呂はチャコちゃんが入れている。風呂から泣かずに出てくる。出てくると裸のままであちこち歩き回ってなかかなおむつを付けさせない。おしっこを漏らされてはたまらないので追いかけるが裸で飲むジュースがたまらなく好きなようだ。
「あっ、あっ、あお、あか(信号の色)、たあっく(トラック)、ぶーぶ。」と訳の半分、分からない言葉を、幾つも発しながら寝てしまった。寝顔を見ると安心感と明日までの静けさから少し淋しくなる。
1997年 8月 4日 月 晴 火災保険
銀行金利が下がっているのは知っていたが、火災保険の支払い保険料が上がっているのは知らなかった。日本の保険制度は貯蓄と保障が契約中に併合されている商品が主流になっている。
10年契約だった火災保険が来月満期になるので、満期保険金を受領できる旨の通知を貰った。その中に新規契約の案内が送付されていて、料率の上昇にびっくりしてしまった。火災保険の支払い保険料の料率が3倍以上にはね上がっている。従来、保険金額一千万円に付いて4万円だったものが、13万円以上になっている。
市中金利が低いから料率が上昇したのだろうか。ちなみに掛け捨て保険の料率を聞くと、保険金額一千万円に付いて多少保障に違いがあるものの、4千円からある。掛け捨て保険の案内は入っていなかった。急に火事が増えた訳ではないから、掛け捨て料率は変わっていない。
4千円の支払いで保障されるものを13万円の貯金でカバーしようと考える人がいるのは、不思議でならない。4千円のセーターを買うのに
「13万円を10年貯金してください。」
なんて言われたらどうするのだろう。4千円の支払いで済むことを代理店が話さないのは正しい保険の勧誘なのだろうか。今の火災保険制度はそんなシステムなのだろうか。私は保険の知識に付いて知らな過ぎる。最も有利な「保険会社」と「保険商品」を案内してくれる保険の代理店がどうして身近にはないのだろうか。実質上掛け捨て保険に入ることを薦めない代理店は良心の呵責に苦しむはずだ。保険会社は代理店を苦しめるべきではない。
1997年 8月 5日 火 晴 シェアウェア
シェアウェアには優れたソフトが多いが、実際に便利に使用しているものは少ない。サポートが直ちに電話で問い合わせ出来なかったり、不都合の解明が難しかったりする内に、次第に遠のいてしまうことが多い。
そんな中で今最も優れていると感じるシェアウェアはマックの場合、グラフィックコンバーターとファイル検索犬ポチだ。二つともマックを使っている人にとっては有名なものだ。
グラフィックコンバーターは最新版がV2.9.1になっていて、ダウンロードはここで出来る。特色はほとんどどんなグラフィックファイルでも開けることと、開いたグラフィックファイルをほとんどどんな形式にも保存できることだ。このホームページ上で作られた写真はすべてグラフィックコンバーターが作成している。このソフトの最大の魅力は画像が美しいことだ。どんな画像も美しく変換する。フォトショップでさえ綺麗に変換されないファイルが美しく変換されているファイルも多い。
ファイル検索犬ポチは最新版がV2.4になっているが、私が使った範囲ではバージョン2.3.7の完成度が高い。NiftyServeのFmacusl Lib-2 732,733に最新版が掲載されている。PPC版は改良版が今月末に出されるそうだ。プログラムはマックを使ったことがある人なら、一度は名前を見たことがあると思うが、中谷賢一さんが作ったものだ。
ファイル検索犬ポチは高速で全文検索をする。魅力はその速さだ。ファイルの中身全部を調べるのに瞬時に検索してくる。その上、グラフィック書類、表計算書類、クラリスワークスの書類の中身まで見つけてくる。そして見つけたファイルは前後が表示され、保存ソフトの起動をする。全文検索ソフトは幾つか出ているが、私の使用した範囲では最も使い勝手がよい。
1997年 8月 6日 水 晴 検索
昨日検索ソフトの紹介をしたが、どんな検索が自分にとって良いのだろうかと考えてしまった。インターネット上の検索エンジンは様々なものを検索してきて、自分で投稿したものや書かれたものなどあっという間に検索してくる。人の検索をしてみるとよく人から噂される人などは本人よりも他人のホームページの方がよく出てきてしまう。
最近NTTから英語版のタウンページの検索ハイブリッド版CDが無料で送付されてきた。合わせて日本語版のタウンページを見てみると以前よりもよく拾い出してくる。詳しく調べて見ると
1)伸ばす記号の「ー」を無視している。
2)促音を無視している。「ゅ」、「ょ」、は「ゆ」、「よ」と入力してもよくなっている。以前は「コンピューター」を「コンピュータ」とか「コンピユーター」と入力すると検索出来なかった。今は「こんぴゆた」と入力しても「コンピューター」が出てくる。
検索を甘くすると結果が沢山出すぎるような気もするが、厳格に処理するよりも人間的な検索結果が得られる。
英語や国語の辞書ソフトは前方一致か、後方一致かで検索してくるが、computerをconputerと入力すると出てこない。文字がよく分からないから辞書を引くのに逆に分かるか分からないかを試験されているような気持ちになる。辞書ソフトが広く使われない理由だと思う。
米国には随分と昔からFranklinのLangage Masterという辞書機器がある。この機械の検索ソフトは今の時代でも、気持ちよく検索してくれる。甘い検索で人間的でファジーだ。つまり先ほどの「コンピューター」なら次の様に入力しても「computer」を導きだしてくる。
「komputr」
「kompeter」
「compyoter」
「compyutre」
「compjuter」
いずれも、「computer」がリストされてくる。それも多数出てくるのではなくて、せいぜい7、8個のリストだ。すぐれたプログラムだと思う。
検索は分からないから引くのだから、分かる機械なら誰も欲しい。分かるのは楽しい。すぐれた検索は人と同じように、びったりと同じもの以上に、適当な検索をする。
写真 FranklinのLangage Master
1997年 8月 7日 木 晴 マック白旗
経営が悪いと何をやっても悪く言われる。朝方アップルとマイクロソフトとの提携の発表がボストンからあったとき、アップルに対しての第一印象は悪いものではなかった。
大体、今回は増資であって、減資ではない。180億円の資金を得られる。450億円でネクストステップを買収したアップルにとって資金需要は大切な時期だ。マイクロソフトは競合相手だから、株式には議決権が付いていない。金は出しても文句は言えない。
マイクロソフトはアップルに対して、ソフトを供給する。供給されるのも特段不愉快はない。
まあ良い話だろうと普通は思う。ただ、何もマイクロソフトからお金を供給されなくともと感じるくらいだ。取り込まれないように注意をしなければ。左前だから仕方がない。
株式相場も好印象を持ってこのニュースを受け入れて、買いが殺到して、アップル社の大幅高(33%上昇)を演じた。投資家にとっても良いニュースと受け入れられている。
マックの使い心地の快適さから、今の所は、次の購入機種も引き続き、公用ではウィンドウズ機を使わざるをえないものの、私用では、マックを使おうと思っている。自然アップルに対しても普段から万全なサポートで恩恵を受けている以上好意的になっている。
だから今回のニュースも180億円が入ってきたなんて、さすがだなと、前向きに受け取る。提携の内容もインターネットエクスプローラを標準装備することが中心で、よほどネットスケープ社が目の上のたんこぷ的な存在なのだなと感じる位だ。
ところが、マックを使っていて、最も、不愉快なできごとは、夕刊の朝日新聞だ。一面トップで
「マック 白旗」
「ついに、敵方、天敵関係にあったマイクロソフトからの力添えで再建に」
お前一体何を考えとるんや。と言いたくなってきてしまう。企業など、一円のお金だって無駄には遣わずに、利潤獲得と業績の拡大を常に図っている。敵に力添えなどする訳がない。あくまで、両者ともに利益があるのが契約だ。
マックを使うと少数派の悲劇と言うのは充分によく味わえる。世間の見方や考え方が受け入れられなくなってしまう。繰り返し言うが私はマックからお金を貰っている訳ではない。ただ、使い易いから今の所使っているだけだ。将来マックが無くなれば、その時は仕方がない。壊れてもいいように、二台くらい買っておこうかなと考える位のものでしかない。
と言う位、今日のニュースの伝え方には腹がたってしまう。少数派は苦しい。
ところでネクストステップに支払った450億円て誰が貰ったのだろう。スティーブジョブズかな。
1997年 8月 8日 金 晴 夏の予定
暑い日で体調が悪い。動けない程ではないが、不快だ。昨日から朝起きると、目やにで目の前が真っ白になっている。生まれてこの方そんな経験は思い出せない。夕方航平と一緒に自転車に乗って、目医者に行くと航平から結膜炎がうつったらしい。目を洗ってねっとりとしたゼリー状の薬を目に付けて貰う。再び風邪にかかったようで、内科医院で抗生物質の処方を受けた。
こんなに自分の体は弱いはずではないのに、このところ、航平がかかる感染症には、大半付き合っている。一人で生活していた頃は風邪には強かった。世間でかかっても自分だけは余りかからない。考えてみれば、人と会わないから、かかる機会が少ない。家族は感染症をもたらすのか。こんな経験を経て抵抗力が付いて行くと期待するだけだ。
昼間叔母から電話があって箱根に家族で誘われた。この夏は何処にも旅行を計画していないから、一も二もなく、行く旨を答えた。10日先の話しだ。
盆や暮れの行楽シーズンは東京に留まるしかない。何処にも行ける場所などはない。楽しめると想像できる所はない。それでも行けば行かない自分など想像できない程に楽しいだろうが、楽しさも悲しさも人は平等さ、と思い切ってじっとしている。
1997年 8月 9日 土 晴 歩くこと
昨日の日記を翌日の今日、日曜日になって書いている。こんなことを確か夏休みの宿題でやったことがあるなと思い出す。何日も前のことを書くのに今日はと書き始める時に嘘を付いてしまう自責と、なぜ日記を義務として書くのかと疑問だった思い出もある。
昨日の夜は九時頃に着替えもせずに寝てしまっていた。気が付くと晴れた日曜の朝だった。ぐっすりと良く寝た。暑くなりそうだ。
昨日は夕方、歩いて野沢のガストに行って食事をとった。ここはすっかり航平の行きつけの店になってしまった。チャコちゃんは今の自分にとって、一番落ち着くのはここだと言う。大体航平と一緒に食べて人にそれ程迷惑を掛けない所と言えば、他にはスーパーマーケットのレストランくらいしかない。
ガストが何故迷惑を掛けないかと言うとドリンクコーナーがあって、客がいつもざわざわと立ち歩いているので、食事の途中に航平とそのあたりを散歩することができるからだ。値段が安いのも重要な要素にはなっている。食事は特別に美味しいということはないが、不味いこともない。航平は隣の大学生グループの一人のお姉さんとすっかり仲良しになっていた。何より外食できるだけでも充分だ。
食事を終えて、バギーを見ると、車輪のストッパーが無い。どこかに落とした。もう一度戻って探そうかと考えたが、コンビに注文することにした。コンビのサービスは充実している。
最近になって夜九時まで開くようになったマルエツに寄って本屋をのぞいて、翌日のパンとジュースを買って三人で戻った。
都会の生活で一番好きなことは歩けることだ。レストランに歩いて、スーパーに歩いて、本屋に立ち寄って、歩いて用事が住むのは何より幸せで楽しいことだ。歩く街の中にはどの土地のどの部分にも与えられた意味があって、大事に使われている。無駄がない土地の連続だから、発見がある。
何ということの意味もない本屋へ立ち寄る幸せは、つい忘れてしまいがちだ。
1997年 8月10日 日 晴 異性を誘う
かつて、独身の頃だが、異性に対して、交際を申し込むのは悪いと考えていた節が自分にある。だからと言って誰にもそうしなかった訳ではないが、特別に好きな気持ちになって、一生付き合えそうだと言う異性でなければ、安易に交際を求めてはいけないと思っていたような気がしてならない。最初から破綻するのが怖かったのだろうか。今から思えば、異性(趣向によっては勿論同性も含んで)と一緒に時を過ごす、人生で最も至上な喜びにどうして気が付かなかったのだろうと思ってしまう。
異性を誘うときは自分の頭が動物的になっていくが、理性とのバランスが崩れるのが怖かったかもしれない。汚らわしいような気持ちだ。しかし、子供と一緒の楽しい時を得ると、異性との接触なしに次の世代や自分の平和もままならないことにはじめて気が付く。
人生経験豊富な人が早く結婚しなさいとさとすのは、私も感じたような、異性への認識の変化を感じるのではないかと想像してしまう。コンピューターに携わったり、責任ある仕事についたり、大切な目的に打ち込む時に、異性に対してまで気持ちが向かないこともある。
自分の何が楽しいかと言って、異性と共に過ごすこと以上の喜びはあるだろうか。その喜びへの誠実な努力は正しい筈だと最近になって分かった。
1997年 8月11日 月 晴 暑い
今年の冷夏の予想はどうなったのだろうか。とてつもなく暑く感ずる。都会の夏はビルや住宅のエアコン室外機から出る熱風で自分の所もエアコンを付けない訳には、なかなかいかない。ところが、エアコンを付けても充分にどの部屋も均等に涼しくなるわけもなく、涼しいところと暑いところを行ったり来たりする内にぐったりしてくる。
夕方は冷気を求めて家族で碑文谷のダイエーに行った。航平はこの所大店舗に入ると黙ってバギー車に座っていない。降ろすと広い店内を縦横に走り回ってしまうし、阻止しようとすれば、寝転がってしまう。
バギー車のストッパー部品をコンビに問い合わせると宅配便での配送修理になるらしい。代金は送料込みで二千円だそうだ。こちらからの配送料はふくまない。ダイエーで新しいバギーを見たりもしたが、価格は二万円前後で、やはり、修理依頼することにした。
夕食はフードパークで食事。周りを見渡すと家と似たような家庭も多い。平日にしては客は多い。
家に戻っても暑い、どうしても、暑い。とんでもなく暑い一日だ。会社のエアコンが効き過ぎて冷えてしまうなどと聞くと蹴飛ばしたくなる。休まないと危険かもしれない。
1997年 8月12日 火 晴 金融ビッグバン
内科医院に行くとしばらく飲み続けた抗生物質も今日までで、良いでしょうということで、うがい薬だけを処方された。のどの痛みは五月からとれない。気管拡張剤の副反応で、心臓の動悸や手の震え、不安、憔悴感で、しばらく苦しんだが、やっと少し楽になってきた気持ちがする。
夜、NHKのテレビ番組で、金融のビッグバンに関する番組を昨日に続いて見た。この秋から徐々に金融制度改革が着手されるらしいが、どうも、未だ、取り組み方は中途半端な対応になっているらしい。
銀行で保険商品を扱うことに対して生保労組が反発しているそうだ。生保レディの雇用不安が原因らしい。制度改革による国民全体の利益は多大である筈だから、利益を産む為に貢献する雇用先の変更を余儀なくされる人への処遇は大きくてしかるべきだ。雇用不安が原因で制度改革をあきらめるべきでは決してない。
銀行はつぶれた場合、一千万円までの貯金は預金保険機構で保障されるらしい。証券会社についての扱いについて、先日大蔵省証券局に問い合わせてみた。証券局の回答では、証券会社の商品は債権が中心だから、例えば公社債投信の場合、債権発行元である国が元本支払いについて、保障することになる。電力債なら、電力会社だ。証券会社発行の株式投信についても帳簿上預かり資産になるので、自己資本とは別勘定になっている。保護預かり株券も預かり分で、自己資本とは、別勘定だ。但し、倒産時に、会社がそれら別勘定にある預かり資産を流用した場合には破産法の下で請求せざるを得ない可能性もある。銀行以上に証券会社の倒産も金融不安の端緒となりうると感ずる。
1997年 8月13日 水 晴 償い
すっかりと体調も戻って、自由が丘まで床屋に行く。東横線に乗って秋葉原に行ってみた。かつては秋葉原まで中目黒から日比谷線を使って一直線に秋葉原に向かっていたが、相当に遠回りで時間もかかる。最近は霞ヶ関で乗り換えて、丸の内線の淡路町で下車するコースを利用する。短時間で快適だ。
中目黒からのどの駅もかつての毒ガスで被害を受けた人々が利用した駅を通過していく。ニュースで流れた駅とホームが次々に連絡していく。事件が風化して忘れ去られるまで一体どれくらいの時間が必要なのだろうか。
丸の内線は何度乗っても上りと下りが混乱する路線だ。霞ヶ関から見て赤坂も四谷もお茶の水も池袋の方向でもあり新宿の方向でもあるからだ。丸の内線の多くの駅は乗り過ごすと下りホームと上りホームの連絡がないから、簡単には引き返せない。
事件が風化するまでの時間だが、かつて韓国人留学生が未だに侵略を厳しく糾弾することについて、
「やったものと、やられたものとは風化するまでの時間が異なる。」
と言った。罪に対して糾弾され続ける時間は反省を忘れる訳にはいかない。罪の償いは時間がかかる。
1997年 8月14日 木 曇 腰痛と椅子
先日マッキントッシュに関する本を見ていたら、最初の部分に良い椅子を買おうと出ていた。コンピューターの本なのに良い椅子とはまとはずれな記述のようだが、マックに関する書籍は次元の違う視点からの文章も多い。
米国人が書いた文章で、良いコンピューターには良い椅子が必要で、ランバーサポートが充分に効いた椅子は300ドルはするが充分に価値はあるとあった。
秋葉原に出掛けると歩く時間が永くて腰がしびれたようになってくる。そこで、時々石丸電気の電動マッサージ付きの椅子に座らせて貰うこともあって、それは気持ちが良い。そして、ラオックスコンピューター館の二階にOA用の椅子が幾つも展示されていて、そこにある赤色の椅子がとても良い椅子だった。座ると腰が吸い込まれるようにぴったりとくっついている。秋葉原に行って、その椅子に座らないことはないくらいに気に入っていた。座ると座面がわずかに後ろに傾くのが、良さの秘密だった。
難点は座った位置での視線がわずかに上方に向くことで、デスクに座ってディスプレーを見て上目になりそうなことだ。値段が6万円と高いこともあって良いとは思いつつ眺めていた。
この所コンピューター上の極めて新しい商品も少なくて、購入したい物も余りない。ラオックスの椅子は最近、見かけなくなってしまった。先日、店員に
「あの椅子はないのですか。」
と雑談すると、販売元に問い合わせて、
「販売終了してもう在庫は一つもない。」
という返事だった。店員も
「あの椅子は最高でしたね。」
と答えた。なくなると妙に欲しいもので、それから、銀座松屋などデパートで椅子を見ていたが、もうあの椅子は何処にもない。
しばらくそのままになっていたが、最近、腰になんとも言えない鈍痛がある。あの椅子が思い出される。どの椅子を試してもあの座り心地はない。
日本は椅子に関してかなり後進国だと思う。米国でも欧州でも椅子に関しては随分多種多様に奇抜なものも含めて品揃えが豊富だ。自分で椅子の貿易でも手がけたいなどと思ってしまう程だ。
一昨日ダイエーの碑文谷店に行くと、例のあの椅子とは違うのだが、かなり近い椅子が置いてあった。例の椅子は座ると座面後方が下がるのだが、この椅子は座ると座面後方が上がる。文字で書くと下がる方が快適なようだが、座った感じは良く似ている。ぴったりと体にくっついてくる。よっぽど、購入しようと思ったが、その日は購入しなかった。
今日赤ちゃん本舗に家族で買い物にでた後、その話しをチャコちゃんにすると
「それだけ思っているなら買った方がいいんじゃない。」
と言う。でも例の椅子とは違うから、今日も少し探してみた。渋谷西武百貨店、西武ロフト店、東急ハンズと見たがやはりどこにも一辺倒の椅子しかない。結局東急ハンズからの帰りにダイエー碑文谷店に寄って購入した。値段は定価30500円だったが、支払った金額は29400円だった。おおよその300ドルを支払ったが、届く21日までが何となく不安だ。こだわりがまだ残っているのかも知れない。
写真 購入した椅子 外見は何ということもないが座り心地は良い
1997年 8月15日 金 曇 終戦記念日
夜九時半からNHKで沖縄戦に関してのドキュメント番組を放送していた。じっと見入ってしまう。戦争に関する体験を何回耳にしてもその度に別の感動や思いがよせる。
番組の中で、逃げまどう中、久しぶりに再会できた夫が、その四日目、妻の包帯を洗いに出たところを被弾して亡くなった。生存する妻に番組は
「どんな気持ちでしたか。」
と聞いた。がっかりしたとか、悲嘆にくれたとか、愕然として動けなかった、と答えるだろうと思って、見た。
妻は
「もう忘れて、覚えていない。」
と答えた。余りに辛いと人は記憶さえも消し去ってしまうのだろうか。
戦争体験を伝えようとよく言われるが、若い世代にとっては何の興味もないかも知れない。自分もそうだった。しかし、体験に基づく感じ方や思いには思想とは別の重みがある。重みがあるから自分の心が動く。経験に基づく話は心を揺り動かす。
1997年 8月16日 土 曇涼しい 善意の拒絶
もうすっかり秋になってしまうぐらい涼しい。夕方になって、家族で買い物の帰りに道ばたですずむしが鳴いている。お盆を過ぎると夏も寂しさがただよう。
電子メールでのやりとりにはネチケットの基準を見ると、もはや必要のない返事にしか過ぎない返事を送ることを避けた方がよいと言うくだりがある。
ここでよく分からないのはどこまでが必要があってどこまでは必要がないかだ。ついつい自分の判断は自分にばかり都合が良いものになったり、気を遣う余り過剰なやりとりになる可能性もある。
自分として心がけるのは、心情としての感情のやりとりはホームページ上でのメッセージがとても良く理解できる。メールはなんらか特別な情報が必要ではないだろうか。
でも特別な情報って何だろうとも思ってしまう。
「挨拶」「気づく可能性が少ない明白で重大な矛盾、誤謬」「有益な情報」「問い合わせている明確な回答」「重大な疑問」
などがあるときは、自然にメールを書いても、受けても、返事がなくてもそれ程気にもならない。電話で簡単に済む時は電話は便利だ。特別な情報がなくてもつい感動してメールを書くときは誰にもある。
自分が出したメールについて全く反応がないと妙に不安な気持ちにはなる。届いているかどうか、自分の話しが理解されたかどうかが分からないままに置き去りにされた気持ちにはなる。嫌われたいなら、メールの返事を書かなければよいと自虐的に言う人もいる。嫌われたい人はいないからその言葉の通り苦しんでしまう。
ところが、返事がなくても気にならない時もよくある。もともと返事を期待しないで書く場合もある。フォーム送信になっている書き込みはそれほど返事を求めない。相手がメールを沢山受け取る人だと返事が来なくてもそれ程気にはならない。
メールを出さないのは、相手に対しての敬意だと考えるときもある。ホームページ上に記述できることを敢えてメールとして余計な負担を相手に強いたくはない。
電子メールは新しい道具で、ルールや慣習がない分自由で豊かだが、ルールを尊重しようとする余り不透明なルールにしばられがちにもなってしまう。
自分では甘えているのかも知れないが、
「返事がこなくても相手は自分に対して悪意はない。」
「もはや自分の文章に情報のない返事は送らなくても相手は自分を誤解しない。」
と仮定するように努力している。つまりはいつもその不安を背負っている。もともと自分がホームページを開設した動機の一つはメールで細かくやり取りするよりも簡単に情報を互いに交換できると思ったからだ。
悪意に対しての拒絶や防御はある程度やり方は決まっているが、善意あふれる行為を断る方法はかなり難しい。
1997年 8月17日 日 曇 落ち葉拾い
一日のんびりとしていた。最近の航平は今までの何にでも怖いもの知らずから、少々臆病になっている。特に階段は一カ月程前に前転してころがるように転落してからすっかり自分では降りなくなった。
夕方公園で遊んでもすべり台から降りてこない。無鉄砲さの角がとれている。見えない所で痛い目に会っているのかもしれない。
駒沢公園の集合広場で、航平は、落ち葉拾いが気に入って、座り込んで動こうとしない。先に行くよと言いながら、チャコちゃんと一緒に離れた時に航平はちらっと私たちを見るものの追ってこない。30メートル離れて、バイバイと言っても知らんぷりで落ち葉の中に座り込んで枯れ木を拾っては投げて遊んでいる。50メートル離れてもちらっと見てはそのまま、遊んでいる。だいぶ遠くの木の陰にチャコちゃんと二人で隠れてじっと見ていたが、それでも一人で遊んでいる。
チャコちゃんと目を見合わせて、笑ってしまう。どちらが参るか、しばらく木の陰に隠れていたが、やはり遊んでいる。遠回りして後ろに回って隠れて見ていた。真剣になって遊んでいる。
私たちも見合わせて、笑いをこらえるのに我慢が出来なくなった。連れて行こうとするとひっくり返って寝ころんでいる。私にもチャコちゃんにもそっくりだ。
個性が出ている。強制しない接し方が影響しているかもしれない。静かだがもう既に一筋なわでは行かない。
1997年 8月20日 水 晴 箱根
月曜日から今日まで叔母に招待されて家族で箱根に出掛けた。箱根は東京からわずか二時間程で着くが、山の空気は透明でひっそりとした風が流れている。航平は叔母と叔父にもよく慣れて、ゆったりとした休養をとることが出来た。
箱根が良いのはそこに文化があることだろう。日本の文化は日本に居て最も優れているのだろうが、伝統ある文化が何処にも残るものではない。日本的なもてなしや風合いが文化の異なる誰にでもはっきりと感ずる独自の美しさが未だに確固として箱根には残っている。
東京からは幾度となく訪れるが、訪れる度に新しい発見と変わらぬ美しさが味わえる場所だ。
帰りは海を眺めに小田原に出た。平塚に着くまで、東海道の至る所に交通事故で大破した車が続いている。夏で初心者が無謀な運転をしていると思ったが、夜のニュースを見るとほとんど同時刻に同じ道路を通った一台のトラックが48件の交通事故を犯したらしい。巻き込まれなくて幸いだった。
1997年 8月21日 木 晴 遠慮
14日、購入した椅子が朝方届く。一日使用した範囲ではなかなか良い座りごこち。しばらくしてから再び使用感想を記します(アイコ(株)052−871−4141)。
チャコちゃんは彼女の母の命日が近いので航平と一緒に予定どおり里帰り。土曜日に帰宅する予定らしい。
夕方、とこちゃんが修学旅行のおみやげを持って来訪。はじめての海外旅行だったらしくて感動している様子だった。旅行は何度行っても楽しいが、はじめての旅行の感動は自分も大きかった。自分の経験を思い起こすと同じような所に同じように感激するのが羨ましくもあった。
高校生と両親との会話は成長する大人の部分と養育される遠慮とが、微妙にからみあって、なかなか毎日の様子の全部を詳しく話したり、相談したり出来なくなってしまうらしい。両親も成長する彼女の全部を把握するよりは大人として信頼する立場に次第に変遷していく狭間の時期にあるらしい。話しはどの部分も筋が通って、大人が学ばなければならない。彼女の言い分がすっと通る理想の社会ではないことが恥ずかしい。
少し書きたくてたまらないので、昨日の日記を追記。ホームページなんて見られなければ何の価値もないと話しの枕言葉のように良く読んだ。そんな自分のことを書いて誰が見るのかとも思った。見られるくふうを競ったし時には伝授もあった。
ホームページも第二の世代に入ったなあと思う。無闇な発信から特別に発信するページ。なんとなく想像していたけれど実際に良いものは誰にとっても良い。良いページは驚く程に伝わる速度も速い。
自由はいいなあとぼんやり想像してしまう。
1997年 8月22日 金 晴 ガソリンアレー
チャコちゃんと航平が居ないので、一人で生活するが、すぐに生活習慣が不規則になってしまう。音がないので静かだが、航平が遊び捨てていった、ころがったおもちゃに存在感がある。
夜八時からNHKテレビで日米合作映画「リンコ」前編再放送を見る。米国に渡った日本人移民の生活を描くドラマでしばらく前に後編だけを見て感動的なストーリーだった。前編は見ていなかった。たとえ海外に居たとしても、日本人が理解する真摯な努力と小さい幸せがちりばめられている。後編再放送は28日らしい。
家の近くにガソリンアレーという名前のライブハウス(世田谷区上馬4-11-19)がある。いつからかは知らないが、相当に昔からあるようで、所ジョウジが若い頃バンド活動に使ったとラジオで話していたことがある。
名前だけは本やテレビでもよく聞いて、場所も大体は分かるが、どこがそのガソリンアレーかは近いのにずっと分からなかった。「ぴあ」という雑誌が東京にはあって、いつでもガソリンアレーでの活動は掲載されていた。
チャコちゃんとはじめてクリスマスに近い夜を一緒に過ごすことになった時に、二人で、そのガソリンアレーを探検してみることにした。ミスターユニットと書いてある当日のバンドは知らなかったけれど、ガソリンアレーに興味があった。
目指す住所はよく通る道だが、当のガソリンアレーは見つからなかった。何回か住所を見ながら行きつ戻りつすると、きたならしいゴミの中の奥まった小さな鉄の扉にガソリンアレーと書かれていた。
チャコちゃんは怖いから止めようと言ったが、ドアにかかる汚い重いカーテンを開けて入った。既に若い女性ばかりが何人かテーブルに着いていたが、スペースも狭い、テーブルも汚い、椅子も壊れているような所だった。
ミスターユニットという二人のバンドはいかにもまだ素人っぽい演奏だったが、メロディと歌詞は心に残った。二人の内一人はとてもかっこいい、いかにも、ハンサムで人気がありそうなタイプの人だった。もう一人は歯が出ていて、目がぎょろっとしていて、ピエロのような出で立ちで、人気がなさそうだなと思ってしまった。
小さなライブハウスだから見ている人とも身近にコミュニケーションがあって、楽しい夜だった。終わる時にサインを自由に求めることができた。チャコちゃんはかっこいい方の人でなく、かっこ悪く見える人の方のサインを求めた。彼はマイクで吹き込んだ自分のカセットテープに彼のサインをして私達にくれた。
聞くとチャコちゃんは彼が気に入ったらしい。話しの一つ一つが心に残るらしい。私も一緒にサインを貰いに行くと、 「えー、本当に私のサインでいいんですかあ。彼の方じゃないんですか。」 と聞かれた。
それからしばらくチャコちゃんは彼の出るバンドを見に行った。私もよく一緒に付き合った。次第にチャコちゃんの言う良さが私にも分かってきた。彼の作る詩とメロディラインのコンビネーションは一級品だった。
無名の彼らもその後ラジオに抜てきされ、CDも出したが、バンドは結局解散した。チャコちゃんの好きな一人は、新沢としひこと言う本名で、その後も活動している。今は児童音楽の曲目が増えている。チャコちゃんの好きなアイロンの歌は彼が作った。最近になって、小学校教科書に彼の歌が出ているのを見ると出世したなあとよく話している。
1997年 8月23日 土 晴夜雷雨 キーボード
朝方、心地良い合間に、帰省しているチャコちゃんから電話があって、お祭りもあるので、12時に食事も兼ねて迎えに来て欲しいと言われたがその時間には行けないと答えた。少し疲れもあって、寝ていたかったので、横になったが、目を覚ますと三時になっていた。いつもならするメールチェックもせずにシャワーを使って急いで川崎に向かった。
自由通りを経て、環八通り、中原街道はかつて大学の頃に時折自動車で通った道だ。甘美な思いにもふけりながら車は順調に流れた。
チャコちゃんの家では夏祭りもあってごちそうがならんで、大勢の中で航平も楽しそうに遊んでいた。ゆっくりとくつろいで、夕食もいただいて、ついいましがた戻った。激しい雷雨がたたきつけていて、車から降りる時にはびしょびしょに全身が濡れてしまった。
航平も私も離れていることで成長することもあって、今も新たな発見にときめくこともある。
この文章を書く前にメールを見て、ホームページを見ると、半日離れているだけで、手がキーボードの香りに引きつけられる程に求める。日記は続けなければというより自然にディスプレーに向かいたい気持ちが多くなっているかも知れない。
1997年 8月24日 日 晴 美術品
ゆったりとした日曜日。航平とチャコちゃんは少し疲れたか、昼は休んでいた。自分も昼寝。夕方になって、自転車に航平を乗せて、家族で買い物に出る。夏の暑さは徐々に和らいでいる。
夕食をとってNHKのテレビを見る。バブル時代に取得した絵画が安く海外に流出しているらしい。私は絵画を見るのがとても好きだ。日本の倉庫に眠る絵が整った白壁に戻ることは世界中の幸せだと思う。
外国の著名な都市を訪れるとその街の美術館には時間が許す限り立ち寄っていたい。何処の美術館も日本人とは大勢すれ違う。はじめは勉強のためにと思った美術館も今は立ち寄りたくて仕方がない程になっている。
変化した一つのきっかけは美術館に出掛けて絵を見ないように心がけてからだ。最初は一つ一つの絵をもったいないからと丹念に見ていた。そんな時には絵の美しさは見えなかった。
絵は美術館の通路の真ん中をすうっと歩いてふうっと眺めている。大体一つ一つをじっと見つめる程に美術館も狭くはない。歩いていると自分に呼びかけるような絵が時々光るように出てくる。写真でも彫刻でも同じように光る。目に止まるように自分を引きつけるように、目の前に光って出てくる。その為には書籍やパンフレットなど、文字は出来るだけ見ないのがこつだ。同行者と楽しく談笑したりしながら歩くのもいいが、黙ってぼーとしながら見るのもいい。
ふうっと呼び止められるように引きつけられる絵には自然に立ち止まる。立ち止まってしばらく見つめると、美しい風景を見晴らすような、滝の前に立ったような、心の底からの充足感が自分は好きだ。しばらく立ち止まってその絵を見ると、自然にその絵の名前も知りたくなるし、描いた人の名前も、時代も見たくなる。ずうっと近くにも寄りたくなる。不思議に、誰もが良いとされる画家や作品と一致することは多い。画家の名前を見ると、ああ、やっぱりこの人の作品だと、別の作品と一緒にも思い出す。写真を撮ることもある。シャッターを押す瞬間に絵と融合したような気持ちにもなる。
絵は何処にあるか、誰が持つのかはそれ程重要ではない。出来るだけ心地よく居たいからお茶を飲んだり、休憩に座る場所も欲しい。絵の他に、風景でも、海や山の自然にも同じ価値がある。だから外国から無理して高い値段で買い付ける必要はない。借りてきてもいいし、同じような美しい芸術を生み出してもいいし、自然を守ってもいい。
重要なのは美しいものを保持することと、美しいものを作り出す力だ。美しいものを美しいと感じる心が必要だ。
1997年 8月25日 月 晴夜雷雨 永遠に存続
インターネットのホームページを作成して感じることだが、ホームページはホームの名の通り一つの家のようで、何かと便利なものだ。時間も空間も駆け抜けて何時でも直ちに訪問も出来れば好きな時に退去も出来る。訪問先の様子を家族に伝えることも出来れば、家族全員で訪問することも出来る。本当にここはホームだ。
ただ、しばらくそんな便利な体験をしていると、不幸なできごとで、家がなくなってしまうこともある。便利なだけに取り壊しも簡単だ。ボタン一つであっという間になくなってしまう。
人と人とが互いに交流すれば、けんかもあるし、意見が違うこともある。実際の家族との時間だって重要だ。家族の幸せと自分の安定があるからこそ、ホームページも、続けることが出来る。自分の心と体にゆとりがなければホームページを置くことは出来ない。
楽しく交流があったホームページがなんらかの事情でぱったりとなくなってしまうとき程、悲しいできごとはない。無くなった事情さえ分からないときもある。自分の時間の配分の問題かもしれないし、何か別のことへの配慮かもしれない。単にディレクトリーのファイル数が一杯になっただけかもしれない。手を入れたり、修復を施し、保持する作業は作り出す以上に根気がいる仕事だ。
根気がいる作業を通してもホームページという道具は価値がある。私もこれから先ゆとりがない時や不安定な時には一時休むかもしれないし、書く分量やペースも減る可能性もあるかも知れない。ちょっと突然しばらく更新しないことがあるかもしれない。将来のことだからどうなるかは約束できない。
ただ、どんなに書く分量が少なくなったとしても、更新頻度が減ったとしても、このホームページというスペースはインターネットがあって自分が居る限り、自分の家族や実在の家と同様に生涯存続させたいと感じている。
アドレスはプロバイダーの都合だから、変わるかもしれない。そんな時にはその時代の代表的な検索サイト、今ならYAHOOやGOOから私のこの実名を入れて検索してほしい。だから今の私は一生涯今ここを読むあなたのそばに居る。インターネットでは実態の薄い空虚な存在としても、形態としてのホームページの存在と実生活の私とは同じ時間、永遠に存続したい。
1997年 8月26日 火 曇 炭
航平は昼、スィミングに出掛けた。今月から火曜日と金曜日の週二回通うように変更したらしいが、風邪を引いたり休暇だったりしてほとんど休んでしまった。それでも今は慣れて、泣かずになったらしい。帰ってきても意気揚々としている。
風呂に入って、顔を石鹸で洗われたりシャワーで頭を流されても抵抗が無くなったのはレッスンの唯一の成果かもしれない。それでも何故プールなんかに出掛けるかと言えば友人たちとの息抜きとリラックスが大きいのだろう。チャコちゃん自身も帰ってくるとぴかぴかの顔になっている。
夕方家族で買い物に出るともう大分涼しくなってきた。夏も終わりに近い。スーパーに炭が安く出ていたので買ってみた。空気清浄に使おうと思う。ベッドの横に3キログラムの炭の蓋を開けて置いた。
父の実家は茨城県笠間市に長く続いた炭卸商だった。山から木を切り炭を作り東京に店を持って炭を商う製造元だった。炭倉庫に入ると空気が済んで山の中に入ったように気持ちが良くなる。炭は空気を綺麗にする力が大きい。笠間市の製造元は場所こそ今も残るが、とうの昔に商売は閉めた。神田の店は、近くにやはり同じころ出店した酒商と共に、つい何年か前まで商っていた。
もうすっかり仕事はないだろうと思って、閉める頃店を訪ねると、神田で生まれて神田で育った店主が話すに、いたって繁盛してなかなか止められなかったらしい。それでも娘ばかりで跡継ぎはなくて、今はもう商っていない。炭卸の孫息子の私が炭を飾っている。
1997年 8月27日 水 晴 続、炭
炭屋の息子だった父は当時裕福だった祖父の元から離れて東京にある国立の林業学校(今の東京農工大)を出たあと、当時順調だった親戚の援助を受けて会社を経営していた。会社は当時儲かっては居ないようだったが、金は回って、生活の羽振りは良かったらしい。そんな父は小石川で下着を買いに立ち寄った洋服商の娘だった母を気に入った。
母は、身繕いもかまわぬ程に良く働く祖父の元で、豊かで堅実な家庭に育った。美貌と人に好かれる性格で、今はパイオニアの会長だが、誠也が誘いに来たことがあると叔父は話していた。
他にもいい話しはあったようだが、当時はまだめずらしかった外国車に運転手を載せて買いものに来た若い父に、母は一目で惚れられ、一目で参ったらしい。
商家に生まれた母は、玄関のある家とネクタイを閉める男性に嫁ぎたかった。夢がすぐにもかないそうな父の元に、父の性格を今一つ信じられない祖父の反対も押し切って逢瀬を重ねた。
二人の結婚を周囲が望まなかったのは父の性格や事業にどうしても納得がいかなかったかららしい。目的はまともだったが、資本を浪費するだけが実態だった。
反対される中、愛情を重ねるうちに出来た子供が私だ。母の父親は、父の実家の炭屋に、結婚を反対しに出掛けたところ、町の一等地に建つひときわ造りの大きい父の実家に案内されて、酒を飲むうち、つい承諾してしまったと話していた。親戚にも祝福されて、大きいお腹を隠しての結婚式だった。
父の事業はその頃食い尽くすだけ食い尽くしていた。今の私が浪費を嫌いなのは後々まで続いた父の浪癖がたまらなく厭だからだ。結局事業は私が生まれて直ぐに破綻して、父は経済犯の疑いで、僅かだが拘置所にも据え置かれた。母は私を置いて拘置所に面会に行った。
結局最初から破綻するに違いなかった結婚も喧嘩を重ねながら二人は全うに真面目に人生を生き抜いた。
そんな話しが分かったのは、亡くなってから、こうりの中にしっかりとまとめられた、二人が交わしたラブレターの束を読んだり、死後に親戚が話すのを聞いたりしたからだ。
写真二人が出会った頃の母
1997年 8月29日 金 曇 言葉
航平は最近、少しだが、何かを話すようになっている。はじめて話す言葉がなんだったのかははっきりとはしない。チャコちゃんはアカとアオじゃないかと言っている。言葉のような、なんごのようで、親の欲目のように話したと解釈している。文章はまだだ。
チャコちゃん マアーンマァ
まさじ パーアーパァ
救急車の音を遠くに聞くと クゥクゥウ
おしゃぷり アームゥー、アームゥウー
さようなら バアーィバィ
食べて美味しい時 笑って ゥフゥーン
自動車 ブウゥーウブゥ
何かを求めるとき アハァー、アハァー
暑いの? アチ、アチ
花を指して葉を ハアーパァ
ねこ ニィアーニィァ
犬 ワァーアンワァン
トラック タァアックゥ
プリン プゥ
氷 コォオ
プール プーゥ
パン パァーンパン
月 キィ
一才五ヶ月で、これが話す言葉の全部だ。おしゃぶりをして、じっと自分の世界に入っている時もある。公園友達と接する限りでは標準的な発達に見える。
言葉を教えるのは、大人が話して仕込むのかと思ったが、航平の話す単語を大人がくみとって航平の話す同じ言葉で一緒に遊ぶ。私たちは航平におかあさん、おとうさんと言うが航平はママ、パパと話す。
明日は海水浴に行くことになった。日帰りで場所は決まっていない。茅ヶ崎あたりだろうか。