山口 正司
1997年7月 1日 火 晴 香港返還香港が中国に返還されることになった。そこでテレビも新聞も世界中の人々は今日と言う日とこれからの香港に注目しているようだ。ところで自分の心の中での香港の返還は、よく、香港在住の人が意外な程に冷めたように見えるのと同様に、どれ程テレビや新聞ではやしたてようと、自分も気持ちはついていかない。
一国に二制度というDeng Xiao ping氏の卓抜した発想で返還が実現した。施政者が中国に変わろうとも制度は50年間変えないとするなら昨日と今日で変わることは無いのが冷めている理由だろうか。
世界の誰かが苦しい思いや幸せな気持ちになれば自分もそれにつれて変わるが、香港の人々の生活や制度が基本的に変わらないと宣言されている以上ひしひしとした感動も伝わらない。
むしろ変わらないとしても変わりゆく香港が、これからどのように変遷するのかしないのか、将来の在りようは誰もが持つ現実上の問題だ。ところが最近の中国の国内事情は混乱が多く、モラルが著しく欠けていることをちまたで耳にする。異なる制度の下で、中国本土と香港では全く異なる方向へ成長を遂げた。むしろ中国本土は香港の多様性と混沌とした整然から多くを学んで欲しい。
1997年7月 2日 水 曇り 重油の臭い
東京湾で座礁したタンカーから漏れた重油の臭いが夜になって漂っている。頭が重くなるようなずっしりとした空気だ。
フォーカスで少年法に抵触した写真が掲載されたらしい。近所の書店を通りかかると三店舗では週間誌の販売を中止した旨の張り紙があった。出版社は何と言い訳しても、売るための独りよがりで「はいえな」の行動としか映らない。規制は国家がすべきではない。週刊誌以外の書物を合わせて返本すれば十分だ。
航平のお尻が突然ひどいおむつかぶれ。布おむつを試したが、濡れて目覚めて泣く。明日は遠いが皮膚科へ連れていく。
1997年7月 3日 木 晴 暑い 電池
原油流出は当初発表の十分の一の量に訂正され、回収の見込みは、たったらしい。昨日たたずんでいた臭いは今日は無くなった。しかし、タンカー事故は必ず起きる可能性があるのだから、オイルフェンスの敷設や回収作業は今以上にシステマティックに準備出来ないのだろうか。船で作業している人は本当にこの暑いのに大変なことだが、小さい、はえとり紙のようなものを落としては油を吸い取って竹竿で拾い揚げている風景は哀れに見える。防衛上の守り以前に重要なことで日本を落とすに軍備は必要ないことが十分見てとれる。
航平のおむつかぶれは医師から塗り薬を処方されてきた。今まで使っていたかぶれが無いおむつは川崎市まで購入しに行ったもので、近所では販売していない。昨日から自動車は車検に出しているので購入しに行けない。別のおむつを買って使ってみたが、やはりかぶれるようだ。明日車検整備が終わるので一番におむつを買いに行くのだろうか。今日も布おむつをしているが漏れて蒲団を濡らしたり、慣れないのであたふたとしている。
四月八日に購入したデジタルカメラDC20の電池が無くなった。約三ヶ月使用して、撮って保存した枚数は260枚だった。電池の値段は600円。電池を忘れる程によくもつのは事実だった。三ヶ月使用してこのカメラの一番良かった所は軽くて小さいことだろう。ポケットに入れても気にならない。悪い点は撮れる枚数が8枚/16枚は少ないことだろう。総合的には基本機能が重視されて、カメラ自体は大変良くできていると今も感じる。
写真 自転車が好きだから、ヘルメットも好きになった
1997年7月 5日 土 晴 酷暑 化学調味料
38度を越す暑さらしい。体温より高い。まき水をするが風があるのが救いだ。
昨日、チャコちゃんは航平をプールに連れて行ったが、やっと泣かなかったらしい。三ヶ月間泣き続けて苦労していたらしく、チャコちゃんもよほど嬉しいようだ。
プールサイドから指導員が航平を水の中に投げてチャコちゃんが拾いあげる練習というのをしたそうだが、聞いているだけだと、よくそれで泣かなかったものだ。航平は怖すぎると笑ってしまうことは時々ある。
暑かったので外出をする気持ちにならなかった。花壇に水をやったり、道路に水をまいて、日の沈む頃には無謀にも自動車にワックスをかけた。水をまくと自然に風が巻き起こって気持ちがいい程に涼しくなったからだ。ただ行き交う人の目が少々気になったのと、明日に控えた選挙カーの声がうるさい。
航平は風呂場で直径50センチ程のビニールプールに三回入った。おむつかぶれはかさぶたになってほとんど治ってきた。
漬け物の具合は上々で、美味しく出来上がっている。気になるのは、美味しすぎることだ。デパートの総菜売場にある程に綺麗なのも気がかりだ。つまり化学調味料の味がする。落ち着くまでには、まだ時間がかかるだろう。
明日は選挙だ。私は何時も入れたい人がいないので困るが今回は決まった。パン屋の後藤さんに一票を入れる。世田谷行革110番で、かつてから、ほぼ一人で活発に活動してきた様子は、端で傍観していてもその活躍は頼もしい。特段の支持者ではないけれど人も金も組織も乏しいようで、投票だけだが、応援しよう。
1997年7月 6日 日 晴 酷暑 送別会
チャコちゃんはかつての職場の同僚の送別会に品川のウィングに出掛けた。女性が八人で中華料理を楽しんだらしい。
私は航平と一緒に留守番をしていた。一緒に風呂場でビニールプールで遊んで昼寝をした。よく日曜日に夫がゴルフなどで出掛けて家で子供の面倒を見た妻の機嫌が悪くなるなら、恐らく悪くて当然だろうと実感した。
大体風呂場から上がっても自分が、裸のままで、航平のおむつを付けて、逃げ回っていくのを追いかけたりすれば、人生に対する考え方などひっくり返ってしまう。かっこいい男のロマンなどみじんもない。
そんな所に帰ってきて風呂は、めしは、どうしたなどと言われれば、それは、誰でも怒る。男は会社で働くから、女は家庭を守って当たり前だと言う人はいる。だが、男が家庭で育児や家事をかまうことすら出来ない程に働かされるなら、そんな労働条件の悪い会社は辞めた方がよっぽど良い。みんなが我慢して働くから会社が図に乗るのだ。みんなが辞めてしまえば労働条件も良くなり、人が居なくなった所に私が勤めてやったって良い。
と、この位、一人で育児をしていると滅入る。暑いこともあるかもしれない。省エネのため、冷房の温度は28度に設定しましょうというがどんな設定にしても温度は32度より下がらない。
夕方チャコちゃんは無事に帰還して、家族で都議選の投票と、買い物に行く。帰りは駒沢公園を散歩して帰るが、公園友達とのちょっとした出会いと会話で一日の楽しさも気持ちも急速に回復する。
1997年7月 7日 月 晴 七夕
七夕の夜で晴れた風のある中ではっきりと空の星が見えるらしいが、東京ではそれもかなわない。子供が花や星にうとくても、そこになければ、興味も出ない。都会と言うのは当然にあるものが無くて寂しい所でもある。
火星探査機が送ってきた映像を見るとかつて西部を切り開いたカーボーイが見たような光景に見える。チャコちゃんは
「月に降り立った時は夜のようで、暗かったけれどどうして火星は昼間なのかしらね。」
と言っている。大気のせいだろうか。アメリカという国はとてつもなく豊かに違いない。時折り、無償で戴くプレゼントを得たようだがそんな国はアメリカ以外にほとんど無い。空の青さが明日も続けばそれだけで良い筈だが、文明が発展しているとなかなか昨日と同じ明日が困難であるらしい。地球の包容力もそう頼りには出来ないようにも見える。
1997年7月 8日 火 晴 車検
自動車の車検整備が終わった。日産プリンスに整備を依頼したが、車検費用総額はおよそ14万円だった。内訳は
1)税金(消費税含む)40800円
2)保険料 27600円
3)検査費用 1100円
小計 69500円 国へ
4)代行費用 9000円
5)洗車費用 6300円
6)通常整備費用 43000円
7)部品と特別整備費用13000円
小計 71300円 日産プリンスへ国と整備会社でほぼ同じ金額になっている。受け取った自動車検査証の裏面には太字で書いてある。内容は、
「自動車検査は基準に適しているか国が確認するもので、次期検査までの安全性は保証しません。使用者は日常整備義務を負っています。」
自分で検査場に持って行っても、上の1から3までの66500円を支払う必要がある。ユーザー車検代行業に委託すると、上の4から7までを2万円程で代行するところもある。この場合は整備はほとんどないらしい。
項目はいろいろあるが結局整備費用として日産プリンスに7万円支払うのは安全を確保する整備をこの金額で依頼したいからだろう。ちらみにこの二年間の走行距離は5000キロだった。よく乗っているような気がするが、よく乗る人なら二、三ヶ月でも走る距離だ。しかしこの5000キロは結構価値があった。
車ははじめに父が購入したものだが大きい故障もなく、美しい車体のまま、20年目、走行距離15万キロになっている。「技術の日産」の整備に負うところも大きいが、この車検をこの車の最後にしたいとは思う。
1997年7月11日 金 曇時々雨 同窓会
昨日は慶應大学で所属していたゼミの同窓会が新宿のセンチュリーハイアットホテルで開催されて出席してきた。いつか書いたとおりだが、今回の同窓会もはじめは出掛けるのが、どうしても億劫だった。誰が来るのか、楽しい会話が出来るか、考えるとつい休んでしまいたいような気持ちにもなった。
所属していたのは民法のゼミで林脇トシ子教授が担当教官だった。もう退官されたが、今も往年の話しぶりは健在だった。100人ほどの人が出席したが、かつての顔ぶれも久しぶりに会うとすっかり変わっていたり、全然変わっていなかったりと懐かしい思いだ。
最後に「若き血」を肩を組んで斉唱して終わるが、歌う時には学生の頃の良き思い出と明日への活力を貰ってきたような気持ちになる。学生時代の友人はお互いに今も全く疑うことなく良い人だと信じてしまえることが何よりの財産だろう。そうなる過程では、お互いつばをとばして、けんかや、ばかしあい、くだらないことを時間をかけて共に体験して今に至る間柄だからだ。
1997年7月12日 土 雨 待ち合わせ
午前中岡山から出張中のゆずさんとぶた公園で待ち合わせたが、雨が降っていたので家族で出掛けることが出来なかった。メールで早朝に連絡したが、行き違いになってしまった。
彼と私とはホームページ上では良く知っているが、実際にあったことはない。ぶた公園は晴れれば、沢山の幼児が遊んでいる。雨の中で誰も居なかったらしい。傘をさしてしばらくぶた公園にいたそうだ。ただベンチで寝ているホームレスの人が居て、もしかしてその人が私だったら、声をかけない方が良いかもしれないと一瞬感じたらしい。
彼の携帯電話に連絡して、私の家で、楽しい時間を送ることができた。実際に会った感じのゆずさんは写真のイメージ以上にもっと真面目で誠実な確かな技術者と言う印象の方だった。
午後はリタさん家族がコンピューターに興味があるというので、こちらから電話をすると、家族で私の家に来た。米国の親戚やニューヨークの本社とのやりとりの為にホームページを持つためにはどうすればよいかと言う相談だった。雛形を作成して会社のコンピューターでアレンジするように薦めた。
1997年7月13日 日 雨時々曇 盆の入り
朝から小雨まじりの天気で一日家の中に閉じこもる。航平は外で遊ばない日が続いて昼寝のタイミングがずれる。このところ、台風や低気圧と共に多少呼吸不全になってしまい明け方から眠れない。薬を服用するが、心臓の鼓動が激しくなって手のふるえが出る。昼間は寝て過ごした。夜になってすっかり改善した。
盆の入りで迎え火を焚く。東京の盆は七月だ。何故そうなったのかは知らない。他にもこの季節に盆を迎えるところがあるのかも知らない。東京は八月の旧盆の頃は帰省する人でゴーストタウンのようになってしまう。人が居る内に新暦と称して七月に盆を迎えるようになったのかなと想像している。
盆と言っても東京の盆は味気がない。近代的な街の中のベランダでわずかに晴れた空から火が見えるように、素焼きの鉢に新聞紙とまこもを入れる。エアコンの室外機の上にわらで作られた馬を二頭並んで載せて、火を点けた。勢い良く燃えて、航平は「あっ、あっ。」と言っている。昼間ずっと私が寝ていたから一日の遊びを一気に取り戻すように火を楽しんでいる。
どこで打ったのか航平のおでこが切れて血が滲んでいる。おとといは階段を頭からおっこちて口を切ったばかりだ。驚いたが幸い何もない。生傷がたえない。少し早い夕食をとって休日が終わる。
1997年7月14日 月 晴 親友の中の親友 追悼文
どんな人にも多くの友人はいる。しかし、友人の中の友人、親友の中の親友と言えばそう沢山はいない。
チャコちゃんの家にはじめて訪問したときにチャコちゃんの中学時代からの親友で今も一番仲がいいんだと言いながら聞かせてくれたテープがあった。チャコちゃんは放送部に所属していて、その親友と共にディスクジョッキーの語りが録音されていた。
チャコちゃんの部屋で録音された音声は、高校生だから本物のラジオの語りと比べると子供っぽくて可愛らしかった。テープには永久保存版と書かれていた。聞いていて、チャコちゃんの高校時代のほほえましい様子と大事な親友がよく分かった。
親友はチャコちゃんの同級生の男性と永く交際して、結婚する日を間近に控えていたが、何故か、突然別の北海道の男性と結婚した。彼女はその後、幸せなことも不幸せなこともあったが、二人の健康な子供に恵まれた。子供たちは、すくすくと育って小学二年と幼稚園児になって駆け回っている。
私とチャコちゃんが、独身時代、つまらないことから、永いこと離れていたときがあった。夜遅く、親友の彼女から電話があって仲直りするように言われた。電話の声は一所懸命だった。
彼女は独身時代永谷園に勤務していたから、スーパーでふりかけの袋を見ると
「純子は北海道で幸せにやってるかな。」
と話していた。ふりかけの黄色いデザインのタオルを持っていたこともあった。乳癌になったと聞いたが、早期で、手術も無事に終わったから、すっかり元気になっているに違いないと思っていた。
急変を知らされて、先月北海道に純子を見舞ったときに
「体調が悪いから夏には東京に行けないかもしれない。来年の春になるね。」
知ってか、知らずか、彼女は明るく言った。
エレベーターホールで別れる時に、いそぐ必要もないのに、
「エレベーターが来たよ。」
と私たちに声をかけた。今日の早朝、七時に電話が鳴った。チャコちゃんが出ると北海道からだった。電話の前でチャコちゃんは泣いていた。
「どうした。」と尋ねると
「明け方四時だった。」とチャコちゃんは言った。午後、花を頼みにチャコちゃんは外に出ると、しばらくして、寝ていた航平が起きて泣きだした。どんなに私がなだめても泣き止まなかった。程なく戻ったチャコちゃんを見ると、すぐに航平は泣き止んだ。純子の二人の子供にとっても、彼女の夫にとっても、純子は元気でなければならなかった。
安らかに。
写真 二人が旅した京都で。左が純子、右がチャコちゃん。
1997年7月15日 火 晴 子供のきまり
どんよりとした暑い日で何かぼおっとした感じだ。航平とチャコちゃんは午前中児童館に出掛けてきた。航平の成長ははじめの一年に比べて、もちろんのことだが段々と成長の度合いが鈍化している。一年目は驚きの毎日だったが、最近は、ゆったりとしたこれからの付き合い方を互いに模索している。
チャコちゃんにとっても私にとっても、家庭の中では幾らでも航平を甘やかしたいし愛情をそそぎたいのだが、そのまま、外で甘い行動は許されないこともある。なるべく外でも内でも同じように行動出来る方が、航平にとって楽だろうと思うと、少しずつ規則やきまりに慣れていた方が良いのだろう。
しかし、何も考えずとも自然にきまりを強いてしまうことも多いから、無理に厳しく言う必要はないのだろうか。私の要求がなるべく分かりやすいように、言ったり、言わなかったりしないようにはなるべく務めている。
おもちゃの取り合いをして人のおもちゃを航平は勝手に取ってくる。相手の親がいれば、相手の親は貸してあげなさいと言って差し出してくれる。逆の立場になると、私自身が航平に貸してあげなさいと言っても言うことを聞かないで、貸せないこともある。航平は人のおもちゃを取ってばかりで貸さない子供にも見える。
チャコちゃんに話すと
「みんな同じで特別にそんないじわるではないよ。」
と言うが、貸し借りが上手に出来る子供を見ると、早く航平にも上手に身につけて貰いたいとは思う。互いに争うことも少なく、より一層楽に遊ぶことが出来るからだ。教育やしつけと言うが結局は子供にとって安全にすくすくと成長して貰いたい手だてだ。良く身につけたとしても、伸び伸びと成長して欲しい。
1997年7月16日 水 晴 壊れるカメラ
コンパクトカメラが壊れて、再び、銀座のサービスステーションに持っていった。担当者が見ると、
「シャッターが切れませんね。」
と言って預かり、修理を依頼することになった。95年三月に購入してから既に三回ここに持ってきて修理を依頼している。前回の修理から期間がそれ程経過していないので、やはり無償で修理してくれるそうだ。出来次第宅配便で送ってくれるらしい。今までと同様に完全なサービスで、感謝した。
しかし、持っていく途中は家の中で喧嘩になりそうな位厭な気持ちだった。こんなに壊れるカメラはもう修理を頼まずに新しいものにした方が良いかなとも思った。保証期間もとうに過ぎているのだから代金を請求されたとしても文句の言いようもない。
全然壊れないことがどれほど有り難いかよく分かる。壊れれば、厭な思いをして、撮った写真は現像出来ず、手間を欠いて交渉し、出来上がるまでは使えない。どうなるのかを悩むだけでも相当な損失だ。
だから確かな製品を提供する会社と、確かな製品を選んだとすれば、それはとても感謝すべきだと思った。リコー自体はよい会社だが、私の購入したこの製品はシリーズとしてはじめて出した品物で、コンパクトな美しいデザインは高く評価された。よく、古のカメラも昔の自動車も最初のモデルは後に高く評価されることがあるが、恐らく、最初のモデルはことごとく壊れやすいから希少性が生じているからではないだろうか。
デザインを美しくコンパクトにまとめればそれだけどこかに無理が生じたのだろう。単純で機能的なデザインは壊れにくいデザインであって欲しいが、単に消費者に受けるためのデザインだったのだろうか。
しかし、今乗っている私の自動車もはじめはこんな風に故障ばかり繰り返していた。とことん修理して付き合う内に、離れがたい愛着が出た。出来の悪い子は可愛いと言うが、カメラに愛着を生む時期だと思って辛抱するより仕方がない。
1997年7月17日 木 晴 相対パス
先日までアキウェブというプロバイダーにホームページを置いていたが、レスポンスが遅くなって使えなくなってしまった。
一時的にBNNネットに避難していたが、結局元には戻らない。様子を見ていたが、結局転居することにした。
引っ越ししてはじめて分かったが、リンクの指定を相対パスにしないと大変だ。
今までに書いた分の日記目次を作ってみた。
1997年7月18日 金 晴 クラス替え
スゥエーデンに嫁いだ高校時代の友人から電話があって、在京しているので、明日私の家に来訪することになった。何人かの友人に誘いの電話を夕方してみると、ハワイに出掛けるから来られない人もいたが、
「久しぶりだから会いたい。」
と言って急ごしらえだが集まることになった。東京の文京区にある小石川高校に在籍していた同級生たちだ。この高校で良かったと感じている教育は、遠い昔からクラス替えをしないことだ。大正時代に設立された時に英国で学んだ創立者の意思からか、三年間クラスは一緒に学ぶことになっていた。他のクラスとも交流はあるが、同じ組の上級生と下級生の交流が大切だった。
入学したときに所属するD組は三年間変わらない。二年と三年のD組の面々は、一緒に各種の学校行事が組まれている。中学からはじめて高校の門をくぐって、歓迎会を大男の大人のように見える、両D組の学生が出迎えてくれた。
さっそく夜遅くまで話しを聞かれたり、話したりした、楽しい15の春だった。中学を卒業したての者にとって、大学に入るぞという年長の人と話すのは高校生活の全部を聞くようなものだった。子供のような私にも尊重された丁寧な言葉遣いで、親切に接してくれた。
入学したての頃、同級生同士がそれほどに、仲が良くなくて、
「三年間、居心地悪く終わりたくない。」
と言って、旅行を計画したり、仲良くなる為の方策を練ったりした。今から思えば可愛らしいことだった。先生も
「申し出れば授業を多少しなくたってかまわないよ。」
と言って、近くの六義園と言う公園で、はないちもんめをしたこともあった。何処の高校に在籍しても、思いは同様で楽しいだろうが、そんな努力の甲斐もあって、同級の友人たちは、今も大切な存在に、変わりなく居ることが出来る。
1997年 7月21日 月 晴 楽しみ尽くす
子供の頃夏休みの宿題で絵日記を課されたことがあった。人がよく話すのには、
「日記を書かなければならないから、旅行に行ったり、親戚と会ったりと何か特別な出来事を作るのが大変だ。」
と言っていた。しかし、今から思うと子供の日記を大人が遊ぶ口実にしていたのだろうか。今こうして書いていると特別に楽しいことがあるとどうも書く手がにぶってしまう。楽しさの割には文章が陳腐に思えて、書く気持ちが失せてしまう。楽しさを充分に味わっていたいような気持ちもある。
土曜日は家に結局13人が集って昼過ぎから夜まで話していた。日曜日も家族で外に出て夕方から遅くまで大勢の中で会食していた。人と話しをするのはどうもはじめは億劫だが、出掛ければ最後まで残っているし、家に集えば皆を引き留めている。億劫なのは最後に別れるのが淋しいのかもしれない。
若い時に感情の波が大きくて、楽しい時と落ち込む時があった。ある人が私に助言したのは
楽しいことを楽しみ尽くすべからず
苦しいことを苦しみ尽くすべからず
すべきことをし尽くすべからず、
哀しいことを哀しみ尽くすべからず
というような漢詩があると教わって、内容だけが頭に残っている。結局誰にでも等しく幸せは与えられているんだろうと思うので、余り楽しすぎると苦しいこともその分大きくなるんだろうか。それ程旅行に行ったり、漫遊しなくとも、充分満足な気持ちは得られるのだろう。出来る時には何でもとことんやってみたい願望が勿論大きいからだ。
ホームページの引っ越しが大体おわった。もっとやりたい所は幾らでもあるがやり尽くすべからず。ずくがない、ずくがないと唱えている時もある。
スゥエーデンの子供の14才のキミちゃんと11才のカイ君姉弟が家で作ったホームページ。二人はスカンジナビア系の美しい顔立ちの優しい姉弟だったが、姉のキミちゃんが書いた
「このホームページから出るときには私のお尻の穴にキスしてね。」
という文章は
「ちょっと下品じゃないの。」
と言ったら
「スゥエーデンでは普通なのよ。」
と言っていた。表示されている押しボタンの表示もお尻にしようかと思った。
1997年 7月22日 火 晴 エネルギー
体調が悪くて、夕方チャコちゃんとつまらないことでけんかをしてしまった。どれくらいつまらないかと言えば、
「ちょっと航平をみてね。」
と言われて
「いやだ。」
と言って、引かなかった。チャコちゃんも風邪を引いて熱があって咳が止まらない。二人とも具合が悪い。チャコちゃんは体調が悪くてもそれ程機嫌を損ねないが、どうも私は大変に損ねるようで、チャコちゃんは
「二重人格だよ。」
とまで言う。急速に不安感が出てきてしまう。あせりと共に切迫した気持ちになってしまう。急ぐ必要もないのに自分の事柄にばかり着目してしまう。
社会人になると仕事は体力だと人は言うが、その通りだ。体力が充分あるときと不足している時には生活のリズムに相当違いが出てしまう。規則正しく生活すると健康によいから最大効用を得られるのだろう。
健康を害することで規則正しい生活が失われることもある。けんかが出来るくらいは幸せだと思って良いのだろうか。無駄に溜まっているエネルギーを放出する地震のようだ。
1997年 7月23日 水 晴 近所の医院
チャコちゃんは風邪、航平は結膜炎、私の体調も相変わらず良くない。家族全員が別々だが、近くに病院通いをして薬局で薬を買った。いつも購入する院外薬局の前にもう一軒別の薬局が店開きしていた。院外薬局はあちこちに増えている。
今こうして、それ程大したことのない病気で簡単に医療を受け、安い値段で薬を手に入るのはあらためて幸せなことだ。私は病気がちだったせいか、医療にかかる費用はとても安く感じてしまう。もともと健康にまさる価値はないのだが、医院や薬局で支払う金員で得られる安心感は、他のどんな商品でも得られない程に価値がある。幸せな時代だと思う。
院外薬局では私の購入する薬を管理している。薬に関して病院でよりも親切に詳しい説明を求めれば得られる。もともと私の求める薬が医院の所に置いていなかったので(ツムラの小青竜頭)、処方箋を依頼した。処方箋を一旦依頼するとその月の処方は処方箋に限るのだという風に医師は言っていた。
医院も大病院や専門病院は大混雑しているが、近所の医院に患者はほとんど居なくて、待つ時間もほとんどない。誰も彼もが大病院に向かう時代だ。
大病院で処方する薬はかなり強いという印象があって、私はある一つの大病院で受けた継続的な治療の副作用が相当に大きかったと感じている。近所の医院は弱い薬で治らない印象だったが、直ぐに治らないくらいの薬の方が結局体には良いのだろうか。
地元で永く医院を継続するから医療過誤に気をつかえば、私の体に良い治療をしたのは近所の医院だったと思う。治らないと言っては大病院に行っていた私の過去から、勿論専門的な大病院は頼りにしているものの、今は少し傾向を転換して小さな近くの医院を尊重している。
1997年 7月24日 木 晴 ゲームセンター
夏休みが始まって暑さも人一倍で、家族の過ごし方も普段の日とは違うスケジュールになっている所も多いだろう。航平はまだ就学年齢に達していないので、普段の日と同じ日が続くだけだ。
子供の夏休みは七月中が一番楽しい。休みは始まったばかりで羽を伸ばすだけ伸ばす期間だ。この時に宿題をやってしまおうなどと考えるよりも毎日を力一杯に遊びたい。
子供に何を求めるかと言えば遊ぶことだ。遊びの中から大半のことが学べる。楽しくて変化に富んだ遊びの数々を思いきって遊んで欲しい。
新宿西口のヨドバシカメラのあたりに行くとゲームセンターが幾つかあって、中学、高校生から若いサラリーマンまで、順番を待ってお金を握りしめて鈴なりになっている。
セガの作るゲームだが、拳銃をもって、敵を打ち倒しながら進んでいく。敵に銃弾が当たると赤い血が飛び散る。このゲームを毎日楽しんでいたら自分なら実社会でも試してみたくなるような気がしてならない。ちらっと見ることがあるが、全くもって不愉快な気持ちになるゲームだ。
ゲームを見ると不安でたまらない気持ちに私はなってくる。子供達が毎日、残虐な遊びに身を投じて心身を壊さないだろうかと案じてしまう。実社会でもそんな事件が勃発することもある。
しかし、よく子供を見ると、大人と違って、ずっとゲームにかかわっているようでもない。沢山ある遊びの一つで、子供の飽きっぽい性格が幸いしてか、毎日毎時間を同じゲームに興じている訳ではないようだ。
やはり子供は社会を映す鏡のようで、全部の遊び場所がゲームセンターではないように、楽しみも他に多種多様にあるのだろう。
いたずらにゲームセンターに通わせることもないが、厳格に禁止するところでもないのだろうか。
夏は誘惑も事故も多いが、私にとっては楽しかったことが思い出される季節だ。
1997年 7月25日 金 晴 溝の口
夕方、親戚の通夜で川崎市溝の口に行く。年が若くて25才だそうだ。病気だったらしいが、若い人の葬式は涙が多い。
溝の口は私の住まいから電車で15分程の所だが、駅前は開発工事が進行していて大混雑だった。人の流れは肩がふれあう程多い。東京圏はドーナッツ型に発展している様子が見て取れる。都心は古い街並がそのまま残り、郊外の活気が著しい。郊外から都心に向かう電車も車も混雑する。
青島都知事が都心に流入する自動車に対して料金の徴収を検討したいと発表した。事業ゴミの料金回収制度導入以降、青島都知事はいかにして金をかせぐかに腐心している。顔つきはすっかり変わって、かつてのいじわるばあさんの面影は全くなくなってしまった。
私の部屋のタンスの中身を全部畳の上に出すと、東京の家並のようだなあと感じてしまう。部屋の中の全部をタンスにする必要は無いが、部屋にはタンスが必要だ。
東京に欲しいのは大規模な高層住宅群と衛星企業群だと思う。都心に数ある公有地、例えば六本木の防衛庁、東京大学の本郷以外の数多くあるキャンパス群、四谷の自衛隊駐屯地などに、超高層住宅群を設けて欲しい。官庁は横浜、八王子、大宮、千葉の郊外に大規模に広がる市街化調整区域に移転して欲しい。
超高層住宅群が出来上がることで都心全体の住宅の需給均衡が落ち着くことで価格は低下するはずだ。人が中心に集まって、外に向かうことが大切だ。
かつて江戸時代銀座、神田の住宅が一杯になったとき、幕府は渋谷に政所を新設した。かつての渋谷はたぬきが出ると言われた青山の先で歩いて移動した当時から見ると泊まりで出掛ける遠い場所だった。
江戸幕府が行った事業を是非とも青島都知事は推進して欲しい。効果的に交通、住宅事情が緩和するはずだと信じている。
1997年 7月26日 土 雨台風 自由経済
台風のもたらす強い雨と風の中、一歩も外に出ない。航平とチャコちゃんはそれぞれ医院通い。航平の結膜炎は大分良くなっているらしいが、まだ通院するらしい。どうもプールで感染したらしい状況証拠がある。プール友達だけが感染している。
都心部への流入車両に対して料金を徴収するよりは都心部に住宅建設をの主旨の文章を昨日書いた。改めて思うのだが、どちらも人の仕事が必要なのだが、人が快適に住める住宅を建設する仕事と、ゲートを作り金を徴収し、帳簿を作り、人と車を流入させない仕事をするのとではどちらが幸せになれるかは子供でも分かる。経済は目先の金では左右されない。目の前の金と安易な解決は大きな不幸だ。
ところで経済学を学んだときに、自由経済が有用だという内容の単元があった。色々な例があるが、例えば、米を作るのが得意の米国とラジオを作るのが得意の日本が出てくる。
モデルとして就業人口をそれぞれ各業種10人ずつとしている。米国では米を一人で100キロ作ると仮定する。日本では60キロ作るとする。米国ではラジオを一人で20台作るとする。日本では一人で30台作るとする。
日本では
10人×60キロ=600キロ
10人×30台=300台
米国では
10人×100キロ=1000キロ
10人×20台=200台
両国の合計は
米 600キロ+1000キロ=1600キロ
ラジオ 300台+200台=500台
ところが、自由貿易で互いに得意な物を作って交換する場合。
米国は20人全員で米を作る。
米国 20人×100キロ=2000キロ
日本は20人全員でラジオを作る。
日本 20人×30台=600台
生産物を互いに仲良く分け合うと、米は400キロ、ラジオは100台余計に手に入る。今までと同量だけ生産するなら、何人かの人は他の仕事に従事したり、余暇を楽しむことも出来る。
米国が自由貿易を主張する大きな論拠になっている理論だ。平和が必要な条件であって、関税や間接税は生ずる価値を減殺する。
仕事は、今、目の前に金があるから発生するのではない。自分達が幸福になるために、存在するはずだ。
1997年 7月28日 月 晴 おとなしい
昨日はチャコちゃんの風邪が私にも結局うつって、一日中寝てしまった。新聞では食中毒の可能性もあると出ている。激しいのどの痛みと全身の痛み、頭痛と発熱で動けなかった。休んでいた甲斐もあって、今日はほとんど良い。
昼間はプールで一緒の友人と子供たちが家に集まって送別会をしていたらしい。子供たちは仲良く遊んで楽しく帰ったらしい。航平は自分のおもちゃをみんながいじっても意地悪することもなく、一人で、静かに、絵本を見ていたらしい。
最近になると子供の個性が一目見て分かる程になってくる。チャコちゃんは航平がおとなしくて静かな良い子だと言われるのがどうも気になるらしい。
家で航平と一緒にいて、静かな良い子で大人しいと感じることがないからだ。私が見る航平は我が強くて、思い通りに行かないことは許さず、芯がある感じだ。ところが、やはり大勢の中にいる航平は確かに大人しい。だから人から指摘されても仕方ないが、どうも、チャコちゃんは否定的に感じるようだ。そう言われると私もそんな気持ちになる。
気が付かないで話すことが結構相手の心を傷付けることはある。相手の事柄を話すときに自分と異なる部分に言及しつづけると誉めて、尊重しているようでも、傷付くことがある。
自分が少数派で苦しい立場に居るときに少数派であることを数々論及されると誉められても、けなされている気持ちになってしまう。チャコちゃんにとっては、子供は活発でおおらかであるのが大半で一般的だと思っているのだろう。静かな、大人しい子供はチャコちゃんにとっては少数派なのだろう。
多数派に属しているのは安心なことだ。チャコちゃんは自分を普通の中の普通だと信じて疑わない。だから航平にもチャコちゃんにとっての普通の中の普通であるやんちゃで子供らしい子供に育って貰いたいのだなと言う気持ちを感じる。
1997年 7月29日 火 晴 砂一グラム
自分では正しいか正しくないかは端的、直感的に分かるつもりでいるが、どれくらい正しいか、どれ程悪いかといった計量的な判断は損ねてしまうことが多い。ちょっとしたことに気をとられて大きなミスを犯してしまうといったことだ。
最近神戸でかつてない残酷な事件があった。日本中はこの事件について悩んだし、考えたし、法律のありようも検討された。しかし、この事件は今の所幸いに同種の事件を併発するには至っていないことは幸いなことだ。
かつて入間で似たような事件があったときに、近くにいた中国から来たばかりの人が、
「何故こんな大きな騒ぎになるのか信じられない。」
とよく言っていた。
「こんな事件は中国なら近所の村にもしょっちゅうあるしニュースにもなりませんよ。」
と事の真偽は分からないがもらしていた。一億の人口の内の一人が犯した犯罪だが、改めて想像してみるととてもわずかな数だ。一億という数は大きい数だ。ねじが一億本。パチンコの玉が一億個。一メートルと10万キロ。砂一グラムと一トントラック100台に積んだ土砂100トン。といったように極めて少ないサンプル数だ。
極めて少ないサンプルの極めて少ない事例を学ぶのは、ある意味でこの世離れしていて興味深いし、目新しい。だからこそ衆目にさらされることとなり、地域の何万人かの人々は恐怖の中に落としこまれた。
事件を軽視すべきだと言う主旨ではない。この事件の最も恐ろしいことは、事件の真実、真相を正しく伝えれば伝えようとする程に、誤った量と質の情報に人を巻き込むことではないだろうか。一億分の一の事件をその量と質を同等に人は学ばない習性を持っていることは恐ろしく不安なことだ。交通事故では私の身近の人口70万人の世田谷区だけでも毎週、毎週、一人以上が同様の結末を迎えている。真に恐ろしいことの解決を忘れてはならない。