山口 正司
1997年12月 1日 月 雨 肥料雨が降る月曜日。ただでさえ、月曜日は憂鬱なのに雨が降りしきる。それでも休日を家族で平和に生活しているから落ち着いて迎えられる。チャコちゃんも友人と少しばかり間をおいて会ったから、なんとなく気持ちが晴れているように見える。
購入してきた花の液肥を撒くのに説明を見ると、キャップ10ccに対して10リットルの水に溶かすと書いてある。チャコちゃんに、
「それじゃ、じょうろにキャップ一杯入れればいいのかな。」
と話してみるが、どんなに見ても10リットルには見えない。牛乳パックに水を入れて計ってみると1.5リットルしかない。キャップ一杯の十分の一なんてどうやって入れるんだろう。それを一週間に一度ずつ撒くらしい。肥料って本当に少しでいいんだ。大体私は肥料をやりすぎて駄目にするタイプだ。金魚の餌もやりすぎる。自分はずっとやせぎすで太れなかったが、かつては今よりもずっと食べていた。今の食事は随分少ない。少なくて美味しいくらいがちょうど良いと知ったのは最近のことだ。それまでは栄養も量も十二分以上にとっていた。とりすぎが原因で痩せていたのかもしれない。
航平の育て方もチャコちゃんなしではとても自信がない。自分ではかまいすぎてしまうかもしれない。自分はライオンや猫のように相手を振り回すタイプかもしれない。猫がネズミを右に左に追って弱らしていくように、相手を右に左にふっては参らせてしまうことがある。
チャコちゃんと私の相性がいいのはチャコちゃんが決して私に振り回されないことだ。私がどれほどにインターネットが楽しいと説いても、チャコちゃんは決して乗らない。私がどれほど何と言おうと動じないし、どれほど、文句を言おうと、動かない。
私は文句を言い続けるうち、次第に、もしかすると自分が間違っているかもしれないと思い直すことも多々ある。動じないことで、無言で、教えて貰ったことは数え切れない。
もしも、チャコちゃんが従順で私の言うことを何でも聞くタイプだったら、とっくのとうに、こんな、口うるさい人には付いて行けないと思って、離れて行くかもしれない。
私が何と言おうとも、我が道を行くところは、私がチャコちゃんを好きなところでもあるし、気に食わなくて喧嘩の発端になることもある。
1997年12月 2日 火 曇時々雨 また集合
ケーキを渋谷で買って帰った。チョコレート色のと白いのとを一つずつ。
「どちらでも好きな方をとっていいよ。」
とすすめるとチャコちゃんはチョコレートの方をとった。夜も11時を回っている。
「航平におっぱいをあげてた頃はよくこんな時間からケーキ食べたね。」
と話す。
「今日は日記書かないの?」
「どちらでもいいけど。」
「洗濯もの干す間だけ待っているから、干し終わった頃また集合でいい?」
「分かった。その頃にまた来るね。」
と言う感じの毎日の夜。また集合。
1997年12月 3日 水 快晴 うがい
風呂に入って、航平にうがいを覚えて貰うために、カップを持たせた。
湯船につかりながら、水をカップに入れて、私が口に含み、ぐるぐるとすすいでぱっと吐き出す。見ては、けらけらと笑っている。
航平の口にカップをあてると美味しそうに水を飲んでしまう。再び、私にカップを戻してうがいをせかす。
湯船につかったまま、うがいをして、浴槽の外に再び、水を吐きだす。口から水を吐き出すのを見るのは、初めてなのだろうか。おかしくてたまらない様子だ。
水を吐き出せとカップを私に押しつける。ぱっと水を口から出すと、さらに笑う。
「やってみなさい。」と私がカップを渡すとまた水を飲んでいる。
航平は沢山水を飲んでは笑っている。私は何度もうがいをし続けた。
チャコちゃんは浴室の外で
「うがいするの覚えた?」
と尋ねている。うがいを教えたいのはチャコちゃんだ。カップには猿の絵が書かれて、航平はしきりと猿を指し示す。私は、
「それは猿だよ。」
と答える。うがいを教えると言ったって、どうやれば、この人、真似するのだろう。時がくれば覚えると思う。航平を洗い終えてから、一つ残ったカップを片づけた。
航平は大抵チャコちゃんから、芸を教わっている。
1997年12月 4日 木 晴 睡眠不足
寝不足の日は何となく怒りっぽかったり、気持ちが落ち込んだり、悲観的な気持ちになるが、楽しかったり、嬉しかったりする気持ちも大きくなる。感情の振幅が大きくなる。
少し寝不足だった。モデムの初期設定にアルファベット一文字の打ち違いに気づかず、コンピューター会社のサポーターに一時間も電話を付き合わせてしまった。親切にゆっくりと教えてくれたが、迷惑をかけた。感謝の気持ちも膨らんで、次ぎに買うときも、この会社の製品なら信頼できそうな気持ちになる。自分が悪いのに、感謝するのも睡眠が短いせいだ。
雑誌を見れば、気になる情報が出ている。気になって、夕食をとりながらもチャコちゃんが
「何を怒っているの?」
と尋ねている。こんなことだと話すと
「それは大変だ」
とは言うものの、チャコちゃんは忘れて次の仕事に向かってる。結局は大したことはないし、忘れるのは正常だが、未だに頭が困惑している。整理できなくなってしまう。昔の大切な思い出や、重大なできごとは寝不足と一緒に得ただろうか。大切なことがあると、夜も短く、思いは深さを増す。感動が深くなっただろうか。きのうや今日の感動したできごとはこれから先もずっと自分の歴史の上に刻まれるだろうか。こんな日に仕事もはかどるような気持ちはきっと錯覚に違いない。睡眠不足だから感動することもあるが、感動していると寝ている間も惜しくなる。
書いていて、意味がとれない。睡眠不足の仕事はこんなことだ。早めに休む方がいい。
1997年12月 5日 金 晴 ガラス扉
電話が置かれている台はガラス扉になって、中にカメラと、長さが10センチ程のミニ三脚が置かれている。薬も入っているので航平にはなるべく扉を触らせないようにしている。
ふとした拍子に見ると、航平はガラス扉の中から、ミニ三脚を取り出して遊んでいる。三脚を開いたり閉じたり、何かの足のようにふにゃふにゃしていて楽しそうだ。その三脚で一緒に私も遊んだ。チャコちゃんも足を曲げては楽しんだ。そのたびに航平は笑っている。
いったんおもちゃをつかむとなかなか手離さない。しばらく握りしめてどこに行くにも三脚を持っている。カメラに付ける方はとがったネジになって危険もあるから一緒に付いてしばらく遊んだ。
三脚を持ったまま、ソファの上に乗って、背もたれの上を平均台のように歩く。カーテンにくるまる。落ちたら危険なのに何故か三脚を離さない。見ると、靴下が脱げそうになっているし、片方の靴下はソファの向こうに落ちたかもしれない。もう一方の靴下も脱がしてはだしにさせた。
しばらく遊んで、靴下を履かせようとしたチャコちゃんは片方の靴下が見あたらない。私はソファの後ろに落としたに違いないから、少し見たが出てこない。もっと一所懸命探せと言われて、仕方なくテーブルをどけてソファを移動して探した。
カーテンの後ろにも無い。テーブルの上にもないし、台所にもないし、幾ら探してもどこにもない。しばらくするとどこかから出てくるよと言ってあきらめた。しかし、不思議だ。
一時間程して、チャコちゃんが大きな笑い声で靴下見つかったよと風呂に入ろうとする私を呼んだ。かわいいから見に来てと大声で航平と一緒に叫んでいる。なんだ靴下くらいでと思って、上がってみると、大事なガラス扉の中、カメラと横の三脚が置かれた場所に、靴下がきちんと一つだけ、置いてあった。
1997年12月 6日 土 晴 ダエイ
午後も三時頃になって一日が煮詰まりそうになって外出した。航平の昼寝が一時から三時くらいだが、三時になっても昼寝をしない。昼寝をさせたいと思うので丁度日が高い時間に昼寝に付き合うことになる。
昼寝をしないからこのままでは、天気の良い一日閉じこもりになってしまう。年賀状用に撮ろうと話していた家族三人の写真はまだ撮れないし明日も雨だ。
暮れはなんとなく気ぜわしい。しなければならないことがあるからだ。でもしなければならないことって何だろう。
年賀状を書く。大掃除をする。クリスマスの飾りつけをする。床屋に行く。正月の支度をする。おせちを作る。などだろうか。一年のクライマックスでそれこそ第九のような月だ。
追われてばかりいたから嫌だった季節行事も最近ではなんとか楽しむ工夫か、あるいは、力の抜き所を身につけたい。何も私を苦しめるためにクリスマスがあるわけではない。
誰も煮て食いはしないはずだ。クルシミマスと言う人もいるが、子供たちだけに暮れと正月の楽しみを独占されないようにしよう。
結局三時頃になって外に出ると、もう街は暮れの景色で彩られている。クリスマスリースに電飾ツリーがあちらこちらに立って、赤と緑と白と金のクリスマスカラーが溢れている。
何にもしなくてもいいからとにかく出ようと、ぶらぶらするうちに、銀座に出たが、人の並はいつもの何倍もある。デパートに入ると航平は大きな声でダイエー、ダイエーと叫び続けている。
先日のサッカーの対イラン戦での相手フォワード選手のダエイを大声で呼ぶうちに覚えてそれ以来、時々ダイエー漬けになってしまうが、ここはデパートだ。
街を眺めただけだが、眺めるだけで、家族の機嫌が直る。家族一緒で良かったと感じるのは今日のようにだらだらとしていても、何らか楽しめる日だ。
夜、テレビを見ると辛い立場に立つ人に話してはならない言葉は「がんばって」だと言うが、それは違う。「かんばって」と言おうが言うまいが、厳しいときにはいつもよりも一層人の優しさと冷たさがはっきりと理解出来る。ある側面では正しい表現だが、単に言葉だけの問題ではない。
1997年12月 8日 月 雨 冷蔵庫の裏
暮れになるとあちらこちらを掃除したい気持ちになる。冷蔵庫の後ろがほこりだらけだとチャコちゃんが話すので、移動して綺麗にした。
「この冷蔵庫買ってから後ろを掃除したの初めてじゃない?」とチャコちゃん。
「まだ、買ったばかりだよ。」
「相当経っているよ。」
新しい冷蔵庫だと思っていたが、見ると、四年経っている。四年間裏側の掃除は一度もしなかった。うちの電気代が何故か高いので、うち中の電気製品を全部切って、一つ一つの電気機器の電力消費量を計算したことがあった。夜、真っ暗にして、ろうそくを立てて、一時間ごとの電力消費量を外のメータを見に行って、調べた。独身時代にチャコちゃんが忙しかった頃、寂しさをまぎらわせるためにした仕事だ。
すると、冷蔵庫だけで一月8000円分の電力を消費していた。どこかの具合が悪いまま何年も使っていたのに気づかなかった。異常なく使用できるが、シュミレーションしてみると買い換えないことは非合理だった。それでチャコちゃんと一緒に秋葉原に行って買った。
電気代金は予想どおりがくっと減った。新しいものは一月分が1000円くらいにしかならない。
ろうそくを立てて計りながらテスターで計測しようかなとも考えたが、瞬間の電流は計れるものの、一時間の使用電力を計る機械は見あたらない。秋葉原に行って、そんなメーターありますかと尋ねるとどこに行ってもそんなものはないと言う。
東京電力や、メータ、計測機械メーカーに問い合わせると、どこにも無いと言う。 それでチャコちゃんに話して考えた。どこにもないなら自分で作って販売しようと。
その後、特許庁に出掛けて、出願されていないかを調べに行った。聞きながら調べた。調べ始めると、不思議に見つかればもうこの仕事と離れられるので、嬉しいような気持ちと、見つからなければ、自分が初めて考えたことになるのかなと言う気持ちとが交錯した。
しばらくすると昭和61年に全く同じ構造の計測器をソニーエナジーと言う会社が一般電気機器の内蔵メータ用として出願していた。一女性社員の出願だった。試しにその社員に電話して聞いてみた。電話の主は若い声で、出願したもののその後、製品にはならなかったらしい。
私はその時点で、結局メータを製品にするのはあきらめた。自分が先に出願していたら、そんなメータが今頃どこかの街角で売られていたかもしれない。
考えてみれば、簡単な計測器だ。プラグとコンセントの間に入れて、電力消費量を計算し、表示させる。彼女は電気機器の中に組み込む形で出願していたから、私は独立した機器として出願できたかもしれない。確かにそんな機器があれば、今の地球温暖化、CO2削減にも役立つ、意義ある機械だと思う。今からでも作ってみようかな。
1997年12月 9日 火 曇 峻別
ここの所、航平は急速に言葉を口ずさむようになっている。言葉の意味は十分に理解していないが、大人の話す言葉を真似て近い発音を繰り返す。互いに遊んでいる間は楽しんで行っているが、少しでも私が教えこもうとするとたちまち話さなくなってしまう。助けられるのはうれしいが、指図されるのは、嫌に見える。
人権思想っていうのは赤ん坊の仕草が尊重される社会の仕組みなんだろうか。自分ではしたいことをせずに、しなければならないことをどれだけ出来るかが、大切だと学んだ気がする。
ところが、ある頃を境に、どれだけ、自分がしたいことを自由に達成できたか、達成できる能力があるかが大切にも見える。自由奔放に自分がしたいことをしたいように出来て、社会からも家族からも、容認される人は自然尊敬する。
最近自分は命が惜しいかもしれない。どうしても生きたいと思う。どんなに醜くあろうとも生きていたいと思ってしまう。自分は自分の人生を与えられ、自由に生き抜き、いつでも自分の体は自分で支えられると信じていた。怖い物知らずだったと思う。
世間に怖いと感じることはなかった。どんな社会、どんな人、どんな環境でも、自分は入って行けると信じていたかもしれない。それが今は怖くてたまらない自分に変化している。
自分の体と自分が自分だけで処しきれない自分に変化している。分別とは臆病を言うのだろうか。何らか理想の主張は自分を守る手段だろうか。
自分は本来の美しい、純粋な人としての感性が失われつつあるのだろうか。失われるとすれば、果たして取り戻せるだろうか。
革命や戦士に家族はいらない。理想に家族はいらない。仕事と家庭との峻別といった言葉や社会が、理想と自分の狭間で自分を悩ませ、苦しめる。普通でいい、自分が自分でありさえすれば、と、家族は私に伝える。
1997年12月13日 土 晴 年賀状印刷
年賀状用に撮影しようと試みても延び延びになっていたが、先週撮った中から三人写っているものを選んで一昨日依頼した。三人同時によく写っているなんてなかなか撮れない。
考えていても仕方がないので、一つ選んだ。ところが昨日たまたま店に行くと、忙しいので出来上がりが29日になってしまうらしい。電話してネガを今日返して貰った。
それで、別の店に依頼したが、その間、自分で同じような写真年賀状を試みた。プリンターはインクジェットの旧世代のもので、写真も印刷することが可能というたぐいだから、期待はしなかった。
官製年賀状だが、コート紙タイプで、ワープロ用に作られている紙に印刷したところ、結構綺麗に出来た。これなら、使えると思う。手作りの良さはあるものの、コストと手間の面で外注品にかなわない。
ボツになるのは、残念だけれど、仕方ない。簡単に印刷されているように見える年賀状もそれと決まるまでには色々と曲折がある。
1997年12月14日 日 晴 こども自然公園
良く晴れた日曜日。家族揃って車を横浜方向に向けて移動した。第三京浜国道をおよそ、30分程走ると、横浜始発の私鉄相模鉄道の南万騎ヶ原と言う駅近くに着いた。ここにはこども自然公園がある。広々とした山を切り開いたような地形にこども動物園やバーベキュー施設などもあるが、人もまばらで、管理された自然そのままが楽しめる。
大抵こどもというのは「だっこして」とだだをこねるものだと思っていたが、航平は決してだっこされない。一人でどんどんと山の中まで入っていってしまう。手を繋ぐのも嫌がる。
「いつか迷子になるよね。」
とチャコちゃんに話すと私もそんな風にどこかに行ってしまうそうだ。お弁当を芝生に広げて昼食を取って、公園を一回りするにも航平のペースがのろいし、あちらこちらに興味がいくばかりで、ごくごく小さい空間でしか遊べない。私は大きい公園の全貌に興味がある。航平はここが大きい公園であろうと小さかろうと目の前に興味を示すだけで、ちいちく、遊んでいる。抱っこして移動させようとしても、かまわれたくはないらしい。
途中動物園のぶたを見せると、「こわぃ、こわぃ」と言って泣き出して、そのまま、バギーに乗って、眠ってしまった。
ここはチャコちゃんが仕事に付いていたころ、出来上がったばかりで、こどもたちを連れて遠足に来たことがあるらしく、懐かしそうだった。首都圏には幾つも美しい公園はあるけれど、これほどに、緑に囲まれて、のびのびとした公園は数少ない。何度訪れても価値があると思う。
そのあとは日の出町、元町、伊勢佐木町、桜木町、山下公園などを通過しながら、横浜中華街で夕食を取った。中華街はメインストリートから一歩入る場所に、韓国、ベトナム、をはじめ、新しい店が数々、立ち並んで、相変わらずのにぎわいだ。
もうクリスマスなんだねえと言いながら、忘年会でも、チャコちゃんとデートでも、よく訪れた場所なのに、航平と一緒に来るのははじめてだ。
メインストリートにたつ昔からの店で食事を取ったあと、ぶらぶらと歩きながら、街で湯気が立ち登る新しいと書かれた、ふかひれ饅頭一つを航平とチャコちゃんと三人で頬張りながら街を眺める。今年もそろそろおしまいになるんだなあと感じる。
1997年12月16日 火 晴 範囲内
チャコちゃんは昼、児童館のクリスマスパーティに出掛けて、カレーを作って食べてきた。じゃがいも一つとにんじん一本とごはんを茶碗に一杯分持っていって、航平が全部平らげて自分は食べられなかったそうだ。
他の人と同じように沢山ごはんを持っていけば良かったが、航平一人でそれほどに食べるとは思わなかったらしい。家に帰ってから私と二人で冷凍になったカレーを温め直して食べた。
インターネット上でもカレーの話しが出ていて、伝染するようで、あちらこちらで食べているらしい。そんなことを掲示板に書きこもうかと思ったが、普通のカレーを食べただけで、それだけの話しだ。カレーを食べた、と、自分の名前を記すことで、自分が生きている証拠にしかならない。情報の価値から見ると何の有用性も誰にも無いはずなのに、自分にとっては、重大かもしれない。
家族のありようも特別な情報のやりとりはないが、会話が、大切な価値を持っている。情報って一体何なのだろう。自分が希求する価値を有したデータ。データは自身の行く先や行動の指針として導かれながら、安らぎとなって昇華されていく。
インターネットでの限界と価値を明確にしないと、都会の渦を流されるように、押し出されていく。あくまで、自分と家族の為にする範囲内で楽しもうと、チャコちゃんと会話しながら感じている。逆に言えば、限界を越えそうな程にインターネットの渦は大きくうねっている。
手短に言えば回線をISDNに変更した結果、繋がるのに時間を要さないので、モルモットが餌を頻繁に食べるように、接続しがちになっている。
1997年12月17日 水 曇 資源
私はチャコちゃんから学ぶことが多いが、一つは何かを決める時の判断だ。私は決断するときに他の人や、一般的、普遍的な価値が高いものをなるべく選ぼうと努力していたが、チャコちゃんは他の人の考えは余り気にしないように見える。何にしても自分にとって価値があるものが良い。
だからチャコちゃんが選ぶ洋服もおもちゃも靴も花もある程度似通ったセンスになっている。安心感があるし、何より飽きがこないでよく使っている。私は何かを選ぶ時には良い物が良いと考えてしまいがちだった。
母の日にカーネーションが良いなら、なるべく良いカーネーションを選ぼうと考えてしまう。すると必然的に他の人の考えと同じで、値段が高く、品質の劣るものになりがちで、結果カーネーションなんて不要になってしまう。
花の中からその時々豊富にあるものの中から、チャコちゃんにとって、一番好きな花を選んでくる。他の誰が何と言っても好きなものは好きなのであって、譲れないようだ。
そこで私もチャコちゃんから学んで、自分が何を求めているか、何が欲しいのかを考えて、決断するように努めるようになった。前は良いものが良いと信じていたから、自動車ならポルシェかベンツ、コンピューターならタワー型、家は一軒家か別荘で、旅行はオーストラリアと全く正札を絵に描いたような発想でしかなかった。人が良いと信じるものを人の後を追いかけていっても詰まらないと教わったのはチャコちゃんからだと思う。
「資源」は1.人にとって必要なもので、かつ2.希少性があるものだ。空気は人にとって必要だが、誰にも手に入るので、資源にはならない。石油は人にとって必要で、誰にも手に入らないから、資源だ。私は、資源性が高いものを市場から求めようといつも必死で努力していた。
チャコちゃんが選択するのは、どれだけ必要かどうかは徹底してこだわるものの、希少性についてはほとんど重要視しない。転売して商売するなら、資源性の有無は重要だが、自分のための物に希少性を求める必要はなかったはずだからチャコちゃんの考えは正しい。空気や水を尊ぶ気持ちはどこまで行っても大切だ。
手に入れば楽しい自分を想像しながら、自分の欲しい物を手に入れる喜びはお金で買ってもお金では得られない。いったん手にすると愛着を持てるし、飽きもこない。決断も想像力が大切らしい。
1997年12月18日 木 晴 出迎え
チャコちゃんのお父さんが誕生日だったので、航平を連れて朝方から、チャコちゃんは実家の川崎まで出掛けて来た。帰りは妹さんに日吉まで送って貰ったらしい。元住吉が最寄りの駅だが、冬は吹きさらしで寒いので、一つ向こうの日吉に送ってくれたらしい。
日吉は大学に入った時にはじめて定期的に向かう場所だった。駅を降りると目の前がキャンパスになっている。敷地内は通り抜けが自由で、主婦やサラリーマンも多い。欧米並にベビーカーを押す子連れの学生が多いと驚くのは勘違いだった。
入学が決まった時に自分にとっては不本意でもあってしばらく大学には通わなかった。たまたま春の早慶戦(慶早戦)に出掛けてから通うようになった。卒業するときは感謝する気持ちもあったから、恐らく、充実した大学だったと思っている。
卒業して、社会人になって、はじめて寄付を自主的にした程だった。寄付のために、私の元には私が亡くなるまで生涯、毎月、三田評論が届くことになっている。亡くなったかどうかはどんな風に分かるのかは知らない。何も大した金額ではなく、決まった額以上ならば誰にもそうなるきまりになっている。雑誌以外には特典はないし、希望者にだけだ。
駅をはさんで大学の反対側には飲食店や麻雀荘で賑わっていて、駅から放射線状に伸びた美しい景観が見える。大学と同様に学んだ場所だし、思い出が詰まっている。そんな日吉の駅もすっかりと綺麗になっていたよとチャコちゃんは驚いていた。
チャコちゃんと知り合ってからも、実家が近いのでキャンパスは良くデートした場所だ。近くのレストランで食事をした後に暗くなってから大学の小径を歩いた。野球部のグラウンドがあるまむし谷には痴漢に注意と看板が出ていた。
電鉄会社の東急が反対方向の旅客を増やすために無償で譲り渡した敷地だそうだが、その恩恵で今の私達家族があるかもしれない。
写真 正面から航平を抱っこして歩いてくるチャコちゃん。自由が丘ロータリーまで迎えに
1997年12月19日 金 晴 風邪
午前十時頃から、下痢、嘔吐、腹痛で家族全員ダウン。午後に小児科医に行くと、はやりの風邪の診断。揃って早く休む。
1997年12月20日 土 晴 回復
風邪は大分回復して体は動くようになった。食事はおかゆと消化のよいものを少しずつ戴く。航平にはりんごをすりおろして与える。夕食はおかゆ。熱は下がる。
夜、鍋を磨く。明日には回復できそうだ。
1997年12月21日 日 晴 症状
風邪の苦しさから、ようやく家族全員回復できたかもしれない。昼間は窓拭き、掃除をして、夜は風呂にも入った。今回、一番苦しかったのは、未体験で、様子が分からなかったことだ。普通風邪なら、熱があるとか、鼻水が出るとか、のどが痛いとか、頭が痛いとか、それで、風邪かなと思う。
金曜日、朝、起き抜けに気分が優れず、胃がもたれるような気持ちがするので、りんごジュースを飲んだ。お腹の具合が悪いようで、胃が痛い。漢方の胃薬を飲む。チャコちゃんに聞いても胃が痛いと言う。二人であらためて太田胃酸を飲む。チャコちゃんは吐き気がすると言って吐いている。吐くと気持ちがいいと言うので私も吐いてみる。航平はお腹がおかしいようだが、体は辛くない。
チャコちゃんはプールに行ったが、早々に引き上げてきた。次第にお腹の具合が悪くなり、体中が痛い。体は動く。胃が痛く、吐きたい。航平を抱っこしていると、突然、30センチも食べ物を噴水のように吐き出す。チャコちゃんの体中がどろどろになる。航平が吐いたのは産まれてはじめてかもしれない。30分程すると布団の中で航平はまた吐く。布団カバーと毛布を洗う。チャコちゃんも吐く。水を飲むと、そのまま、おむつに出てしまう。
この時点で私は三人食中毒にかかったと思った。食べた物を思い出してみた。全員が同時に同じ症状だから同じ食物からの感染だと思った。近所の小児科医に航平を連れていくと、直ぐに
「はやりの風邪で、みんな、同じこの症状です。」
と診断された。吐き止めの座薬を入れて、飲み薬を飲ませて、食べ物は禁止、水を50ccずつ与えると言う処方だった。苦しかったが、翌土曜日の朝には家族共ほとんど治っていた。余りに早くて唖然としたが、何も食べていないから、力が出ない。お粥を一日食べて、やっと今日は三食をきっちりと食べていつも通りに戻った。台風が通り過ぎたようだった。
朝方、チャコちゃんが伊丹十三の事件を話している。チャコちゃんが嫌だと言うのを私が無理無理見せて、以降は二人して楽しみに見てきただけに余りの結末に驚く。全作品を見たし、チャコちゃんに見せたりしたから、二回以上見た作品も多い。
ただ、思い返すと前々回の作品、「静かな生活」は、想像以上の不出来だった。義弟の大江健三郎のノーベル賞受賞での映画で、普段の市場を吟味した手法と離れたのではないだろうか。最新作マルタイの女も不作らしい。ヒットを量産し続けた疲れと暴徒による傷がなかったならばといたましい。
1997年12月22日 月 曇 住居専用地域
冬至でゆず湯に入って体を温める。窓の外ではガス工事が一日中行われていた。道路の切削音が響いたが、以前からガス漏れが続いていたのだろうか。何度も訪れて、結局今日の工事になった。隣家のことでひと事だが、気にはなった。
一軒先はキッチン専門の本社ビルがあった。不況の影響もあるのか、移転になった。はじめてここにビルをかまえた時にも挨拶はなかったけれども、移転していくにも挨拶はない。会社だから仕方がないと言えばそれまでだ。
建ってからそれほど経たないビルが壊されてほとんど更地になっている。ビルはまだ使えても壊すのを止めることは出来ない。個人の頭では捨てられなくとも、利益にかなわなければ、廃材としてトラックに詰まれる。
ガス工事をした目の前の小さい私道は家を含めた6軒の家と、取り壊している一つの会社で使った。会社従業員と会話はなかった。他の家とは普段から挨拶して親しかったけれども、会社の人とだけには、心のやりとりはなかった。夜間、火事で消防署と支店に通報して、一度だけ菓子折を持って挨拶があった。普段は従業員同志が交わす笑い声だけだった。会社は土曜の夜から日曜日にかけて徹夜することも多く、利益はやみくもに追求するものの、恐ろしい程に人の心は持ち合わせていなかった。
会社は商業地に建つが、通路部分は住居専用地域になっている。住居専用地域が専用に使用できなかった不自由だろう。住居専用という当たり前のことが、当たり前に執行されなかった。
新しい土地はマンションが建つらしい。どんな風に変わるのだろう。
1997年12月23日 火 曇 年賀状
年賀状を休み休み書いていて、まだ、これから、チャコちゃんと一緒にコメントを楽しみに綴る。明日出せるかどうか。
1997年12月24日 水 曇 クリスマスイブ
クリスマスイブの日。チャコちゃんはケーキを作って、ワインを開けて、乾杯。風邪も治ったし、すっかり元気になって、一つ一つ、訪れる行事を楽しまなくっちゃ。
1997年12月26日 金 晴 期日指定
御用納めの日。夕方に床屋で髪を刈る。普段ほとんど待たないのに、この日ばかりは一時間近く待った。待ってもいつもと同様にきちんと刈ってくれるから終わるとさっぱりする。
チャコちゃんに言わせると来週一週間は一年で一番忙しい日らしい。28日から1月4日までだが、普段なら何でもなく通り過ぎる7日間なのにこと正月と言うだけで、変わってしまう。
何故忙しいのだろう。しなければいけないことが期日指定でめじろ押しなのが原因というのが出した推論だ。クリスマスは24日か、25日の期日指定になっている。正月用の飾り付けはその後に続いて、やはり期日指定だ。掃除も正月早々にはなかなか出来ないので年末に一度はするのだろう。床屋も年末に一度は行くかもしれない。年賀状も書く日は期日が丁度このあたりだ。
学生時代の期末試験のように、すべきことが、期日限定で押し寄せる一週間だ。楽しいのだろうか。楽しいかどうかは分からないが、行事の流れに抵抗するのが苦しいことは想像が付く。
元旦から車にワックスをかけて、障子の張り替えをすれば、この国では迫害を受けるかもしれない。すると、やはり、自分は無宗教なようであっても、なんらか、強固な、思想に繰られているらしい。
繰られる思想どおりに生きると、一定的な幸福感を得られることも体験済みだ。自分は従うことも従わないことも出来る筈だ。何度か従わずに、不幸な思いを重ねるうちに、今は積極的に前を走るグループに入ってしまわないかと不安な気持ちにもなる。
1997年12月27日 土 曇 スケジュール
午前中家族でスポーツカー公園に出掛けた。チャコちゃんは航平が三輪車に上手に乗れるところを私に見せたかったのかもしれない。小さい三輪車と大きい三輪車があった。わざわざ乗りにくい大きい方でなければいやだと言い張って、届かない足を伸ばしてつま先で押した。
信号では止まって、踏切では行ったり来たりした。師走も押し詰まって私達以外に遊ぶ人は居なかった。隣りの衾町公園では特別に高いすべり台があってそこから何度もすべり降りて見せた。速度が付きすぎて、両足が上に持ち上がりながら、降りてくる顔は恐そうだが、下に来ればまた上に登りたい。
一才の女の子と両親とが一緒に遊んでいて、自然親しくなった。広い公園の中には、子どもが二人と大人は私たち四人だった。はなちゃんという名前と近くに住んでいるとだけしかわからない。感じのいい家族だった。一期一会で、またねと別れを告げた。
昼食をとって、正月用品の買い物を幾つかする。店には品物が溢れ、人は山のように買い物をする。何のためになどとも思わない方がいい。たくさん買ってもいいし、余る程買ってもいいのかもしれない。かつお節はたくさんあるよと言うのに私はまた手に取った。昆布も普段なら買わない大きいものを取った。
夕方うちに戻っても自転車で買い物に出た。やつがしらに肉、お茶に魚を篭につめて戻った。
私達家族はたまたま、お酒も飲まないし、煙草も吸わない。賭け事もしない。(どれも高校、大学時代にはあきれる程していた)外に宴会を持つこともない。お歳暮もしなかった。それではなんの趣味もないのですね。と問われれば、
「インターネットをします。」
と答えるかもしれない。少しばかりは材料も高級な素材でいいよねと私もチャコちゃんも互いに話すが、実際に手に入れた食材は普通でありふれたものだ。
私は料理はある程度出来るものの、チャコちゃんには遠くかなわない。スケジュールに従って、食材が、形を変えていく。日程がきちんとしているから、空き時間とゆとりがある。一年で最も忙しい一週間なのかなと疑う程に全体にのんびりとした一日だ。