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2024.4.4

けやき抄


山口 正司             




2024年 4月3日  水 雨       学歴



 高校の同窓会二次会の席、クラスの友人達と話す中で、静かに彼女はこうつぶやいた。

「私、中学卒業したら、高校に、進学しないで働きたかったのよね。でも先生は、みな好意的によく考えてくれて、私達のいた、この高校を、受験だけでもしてみたら。と話したの。」

「それで僕たちと一緒の高校生活を歩むことになったんだ。」

「僕たちの居た高校は地域でも最難関の進学校だったよね。」

「毎日のことをしっかりしていたから、中学の成績は悪くなかったわ。」

「優秀な生徒が就職したいって、先生はびっくりしただろうね。当時内申は大切だったから、記述試験を受けて、たやすく、入学したんだ。」

「そう、そうだったの。私、自立したかったのよ。自分の働いたお金で、自分の決めたように遣って、早くひとり立ちしてみたかった。」

「今から思うと進学の大切さを理解しなかったかもしれない。うまく言えなくてこんなこと話したことなかった。」

「ここに居る皆が優秀な大学に入学して毎日を学ぶ中、高校から、目の前の興味にしっかりと向き合って、社会に早く進み、別の多くを学んで、今の君の豊かな人柄があるんだ。」

「働きたかったっていうこと、はじめて、話してくれてありがとう。」









2018年 2月20日  水 晴       初任者研修再会

 30数年前、東京都特別区に就職した私は木場で初任者研修を受講することになりました。朝から夕方まで長期にわたって同じグループの仲間とはじめて学ぶ行政の細かなやりとり、仕組みを共同でワークフローに従って習得していきました。グループ同士で語り合いながら毎日を送ったので、互いの人柄、性格を充分に理解しながら課題をこなしました。

 長い研修を終えて、各区の各職場に配属されていく私達のはじめての職域外のネットワークになりました。4年後、私は職場を去ることになって皆とは別に互いの道をそれぞれに歩み、進みます。

 グループの一人の女性の訃報を昨年受け取りました。いつも会えると思いながら、互いを遠くに見ていた私達はのんびりしていたらもう再び逢えないかもしれない危惧を抱くことになります。

 一人は、30年以上もの間全員と年賀状を交換し続けていました。連絡先を知る彼女の呼びかけは、グループの全員を集めました。再会すると時は経ても互いをすぐに理解して、かつての様子はかわりませんでした。これからもまた会えたらいいねと話しながら、一日を過ごしました。

 この再会の思いをページに加えます。



 
初任者研修の会再会のページ 「Always」






2014年 1月 1日  水        2014年おめでとう







 新年明けましておめでとうございます。今年も家族揃って平穏に新年を迎えられたことに感謝しています。

 子供達はもうすっかりと自分の道を歩み始めています。親の影響を跳ね除けて自分の思うように行動しています。行動は正しく順調なら私も安心しています。順調でない時は私自身も同じように気持ちが移ってしまいます。私も自分の道を行く時です。兄弟はいつも楽しく会話し遊びます。

 上の写真、私は友人宅を訪問した時、長男は修学旅行、次男は中学校の鎌倉旅行、チャコちゃんはリビングで撮ったものです。

 携帯用メールアドレス変更しました。ご連絡は
こちらまでお願いいたします。








2012年 8月15日 水 晴       清明小学校クラス会

 11才の春から13才の春まで長野県上田市に私は住んだ。父親は転勤の多い仕事で2,3年に一度は家族揃って転居していた。このまま行くと、高校は転校が難しいから、たった一人で地方の高校に行く事になってしまう。それで中1終了と共に私だけ家族と離れて祖父母のお宅にお世話になることになった。

 その後病気で父も母も亡くなることになるので、私にとって、上田市での思い出は家族全員が一緒に健康で暮らした最後の場所になった。

 上田市の教育は進んでいて男女を別け隔てなく処遇し、自然に親しんだ。小学校のクラスは6年間一緒、中学校も3年間一緒だったから家族ぐるみでクラスメートの絆も強くて途中から入った自分にもやさしく温かかった。先生は児童を名字ではなくて名前で呼んでくれた。北にそびえる太郎山や太陽の登る烏帽子岳の景色は今も忘れられない風景だ。

 その頃遊んだ空間が夢のように思い出されるのだけれども、今となってはそれがどこなのか分からない。一体どこだったのか、誰に聞けば良いのかも分からなかった。

 私がこうしてインターネットに実名で書いていることもあって、同じように上田市に思い出のある友人と縁ができた。かつての友だちたちに逢いたいと、連絡を重ねる内に2006年に中学のクラス会を、そして2012年8月に小学校のクラス会に出られることになった。

 上田市を離れて初めての街歩きだった。自動車では立ち寄ったことはあるけれども、歩いてはいなかった。かつての思い出は古い家や古い道に来ると蘇ってくる。ふと立ち止まるとそこはどうしても思い出せなかった毎日を遊んだ場所だった。上田城の一角にある柔道場だったその建物は当時のままで、今は水泳の更衣室になっていた。

 友人たちはもう何年もあっていないのに、あった瞬間から今までの空白を埋めてくれる。お互いの様子も分かった。皆幸せに過ごしていることが分かるだけで自分も安心できる。

 転居は大変だよと言われてきたことの一つ一つは、苦労の中から収穫できるりんごのような果実になった思いがした。




 清明小学校クラス会のホームページ作成しました。

清明小学校クラス会



 上田市での一日を写真に撮りました。 

清明小学校4組クラス会2012







2011年 9月 6日 火 曇       ピアノ発表会

 ピアノの練習を始めて、航平は高1で12年、祐樹は小6で8年になる。発表会に向けて練習を重ねてきたからもう私の頭には毎日の練習からメロディーはしっかりとやきついている。それでも当日には普段通り弾けるのか、不安と心地よい緊張に朝から包まれる。

 二人とも緊張に強く本番になると普段以上の力を今までは見せてくれた。それでも今回を無事に迎える保証にはならない。いつも以上とは言わないけれど、いつもと同様でも、それは失敗の連続だった。頼むから失敗するなと思うにつれて私自身の方が緊張している。

 スタジオは閑静な住宅地の中に普通の住宅のように建っていた。ドアを開けると中は礼拝堂のように高い貼り天井で正面に静寂を醸しだす絵画がある。さっそく先生はリハーサルをさせてくれた。先生の言葉を聞くと普段通りにすれば必ず成功する安心感を得る。



 祐樹 ベートーヴェン作曲 エリーゼのために

 航平 ショパン作曲 ポロネーズイ長調Op.40-1 (軍隊ポロネーズ)

 ボーカル NHKアニメワールド 獣の奏者エリン 上橋 菜穂子作 主題歌 雫 〜しずく〜 スキマスイッチより



 当日のビデオです。ご覧下さい。




              
祐樹と航平ピアノ発表会 (20分22秒)




         Movie再生にはQuick Time 7 無償プレーヤーのダウンロードをご利用ください。










2009年 3月23日 月 曇       文京区立第五中学校閉校

 私の学んだ東京都文京区立第五中学校は本年をもって統廃合の対象となり閉校となる。現在の新一年はわずかに十数名となり、学校を維持できる人数ではなくなった。文京区立七中と合併し新たに文京区立音羽中学校としてスタートすることになった。

 廃校になる前に卒業生に対して学校の見学会と、同窓会は開かれた。出かけてみると、かつて私の学んだ校舎はほとんどその姿を変えることなく、驚くほどそのまま立派に存在しつづけていた。かつて広々と感じていた講堂は思いの外小さく、すべては、こじんまりとまとまっていた。私も私の母、兄弟も多くの親戚も学んだ同じ教室の同じ校舎はこれですべての役割を終えて次世代に引き継がれる。

 昨日撮り終えた写真を元に同窓会のページを作成した。建物はなくなっても思い出は残したい。


    
文京区立第五中学校同窓生ホームページ



2009年 1月12日 金 晴       カステラレシピ

 カステラのレシピです。とても美味しい。




2007年 8月24日 金 晴       黄身

 高校生の頃、お弁当に目玉焼きの卵はよく入っていた。私はその卵の黄身を一番最後に食べる習慣だった。何故そうしていたのかは自分では理解していなかった。いつも必ずそういう順序で食べていた。それを偶然に悟った友人は私をからかった。

 「一番美味しい黄身をいつも最後に残して食べるなんて子供っぽいなあ。」
 「いや、僕は美味しいものは最初に食べる主義だし、好きだから最後にしている訳じゃない。」
 と言うと、彼は
 「だったら最後の黄身を食べてやろうか。」
 「いや、それは困る。」
 「やっぱり、好きなんだ。」
 と、同じようにからかわれながらも毎日目玉焼きの黄身を最後に綺麗に残して食べていた。当時、まだ卵は貴重だったし、反論するために黄身を友人に差し出すだけの勇気はなかった。

 社会人になってから、おりおり、自分は好きなものから食べていく習慣を知って、なんであの時言い返せなかったんだろうとよく思った。寿司は大好きなまぐろやいくらから食べるし、ステーキだってとんかつだって美味しそうな部分から食べ始める。
 不思議だなあと思った。

 ある時、朝ごはんの後、航平の食卓を見て愕然とした。朝食のプレートはほとんど平らげて、そこに綺麗に白身をはがし取られた黄身はそっと残されていた。航平に、
 「何故黄身を残すの?」
 と尋ねると、
 「だって、白身は好きだけど、黄身は好きじゃないもん。お父さん食べて。」
 と答えた。

 食べてと言われても食べられなかった。もうお腹はいっぱいだったし、たとえお腹が空いていても、それほどに食べたくはない。

 飽食の時代に育った航平を見て、初めて自分を理解した。航平と同じで、自分も白身は大好きで、黄身はそれほど好きではなかった。何故そんな簡単なことに気付かなかったのだろう。成長期に卵は大事なたんぱく源で残す訳にはいかない。最後にこれでおしまいと思いつつ食べていた。白身の方は好きなことに何十年も気づかずにいた。もしも冷やかしていたことを覚えているなら、かつての級友には
「好きなのは黄身じゃなくて白身だった。」
 と話してみたい。









航平




2006年12月 2日 土 晴       うるさい客

 ガンバ大阪と浦和レッズの優勝決定戦。浦和が勝てば優勝、負けても三点差以内なら優勝できる。今年も変わらずFC東京を応援したけれど、Jリーグでは最後まで目立った成績を残せずに終了した。

 試合終了後床屋に行く。いつも静かで落ち着けるのだけれど、隣りの人は初めて店に訪れるようで、ずっと話し声がかすかに聞こえてくる。最初は全く気づかなかったのに、気になると、うるさくてたまらない。

 先日、一年生の祐樹の授業参観に行って来た。一人の男の子は授業中にずっと話している。先生の静止を聞かず話し続けている。先生は男の子を無視して授業を続ける。それでも話し続けるのは一向に止まない。授業は成り立たない状態だった。

 話したら相手は嫌な気持ちになるに違いないことを見事に選んで話し続けている。いわゆる学習障害とか、ADHD、多動性障害の疑いはあるのではないかと思った。障害を持っての周囲の配慮は大切だとは思うけれども、実際に授業を聞きたい他の生徒のふんまんは、どうしたらよいのだろう。一日中、話し声につき合うのは困難だろう。他の子供達もつられて話しだしたり、動き出してしまう。

 家に戻って、祐樹に
 「うるさい中で授業を楽しく感じるにはどうしたらいいと思う?」
 と聞くと、わからないという顔をしている。
 「それはね、一生懸命先生の話だけを聞くようにすると他の声も音も聞こえなくなって、授業は楽しくなるよ。」
 と、助言した。

 その時の祐樹の厭そうな顔、しかめ面、ふてくされた顔はなかった。

 そうか、毎日、必死にそう努力していたんだと後から理解した。学校は補助の教員を一名つける対処をしたけれど、これから先、保護者としてどう対処するかは、思案中だ。

 うるさかった床屋の客は直後、別のフロアに移って行った。







墓参りのあと




2006年11月30日 木 曇り      何で?

 インターネット上に日記を書くのを止めていたの何故?

 それは、自分の書かれた日記を嫌いになってしまったから。

 再び書いているのは何故?

 それは、書かれた日記も、少し好きになったから。





蔵王で




2006年11月29日 水 晴       サッカーに行くまで

 「ただ今。」
 と航平の大きい声はこだまする。
 「サッカーに行く前にお餅を食べてって。お腹空かすから」
 とチャコちゃん。
 「お餅いらないよ。」
 「だめよ。」
 「分かった。」
 いやいやそうに食べはじめるけれど、最後は美味しそうにたいらげて、航平は友人の家に向かった。

 祐樹は既にサッカーに出かけている。終わると航平のサッカーは始まる。学校から帰ってから、サッカーの始まるまでのわずかな時間は友人と遊ぶ大切な時間になっている。

 チャコちゃんは航平を出すと、祐樹を迎えにサッカー場に急ぐ。一年生だけれど、まだ一人では帰れない。
 夕飯のおでんを煮込む香りは家の中にただよう。

 子供を中心に家は回っている。








三軒茶屋大道芸祭りで





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