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97年2月

山口 正司             


1997年2月 1日 土 晴     かおりちゃん 1997年2月 2日 日 晴     低体温療法 1997年2月 3日 月 雨後曇り  節分 1997年2月 4日 火 晴     談合事件の報道 1997年2月 5日 水 晴     ペース 1997年2月 6日 木 晴     歯の治療が終わった 1997年2月 7日 金 晴     安定を望む 1997年2月 8日 土 晴     秋葉原の児童館 1997年2月 9日 日 晴     外国語 1997年2月11日 火 晴後雨   渋谷の児童会館 1997年2月12日 水 晴     魔物が住む 1997年2月15日 土 晴     送別会 1997年2月16日 日 雨後晴   我蘭堂 1997年2月17日 月 晴     抱っこ 1997年2月18日 火 曇り    子供の風邪 1997年2月19日 水 晴     考え過ぎないように 1997年2月20日 木 晴     Deng Xiao Ping 1997年2月21日 金 晴     立てる 1997年2月22日 土 晴寒い   文章と現実の違い 1997年2月23日 日 晴     罪の理由 1997年2月24日 月 晴     泣き声 1997年2月25日 火 晴     ハローページのCD-ROM 1997年2月26日 水 晴     バーコード 1997年2月27日 木 晴     合格通知 1997年2月28日 金 晴     寝る子は育つ

1997年2月1日 土 晴   かおりちゃん

 チャコちゃんは航平を産む前に一ヶ月間入院した。切迫早産の危険があると診察を受けてその日にベッドに入った。一ヶ月間、朝から夜中も24時間ずっと点滴が続いた。歩くこともしてはいけなかった。

 チャコちゃん自身は元気だったが、出産を控えて体力が落ちないか、風邪薬さえ飲まなかったのに、点滴を続けていて毎日が不安だった。向かいのベッドはやすこさんがやはり同じ症状で同じ治療を受けていた。

 二人ともベッドから動けないのでブラインドをおろすのが帰る前の私の日課だった。やすこさんは職業が看護婦だったからチャコちゃんの点滴を時々治したり、明るくて、チャコちゃんにとってその出会いが一番の幸せだった。

 その後無事に航平は産まれて、やすこさんはまだしばらく入院した。近所だからぶた公園で会えるよと言って住所のやりとりをしなかった。

 その後やすこさんは元気に出産して退院したと病院で聞いた。やすこさんの職場あてにチャコちゃんは手紙を 書いたが返事はなかった。ぶた公園でも会わなかった。

 やすこさんが赤ちゃん、だんなさんと一緒に今日うちに訪れた。職場に手紙があったのをずっと経ってから見つけたそうだ。ぶた公園は航平が日曜日にあまり行かなかったのですれ違ったらしい。それで先日ファックスを貰って今日の再会になった。航平と二月ちがいのかおりちゃんにやっと会えた。



1997年2月2日 日 晴     低体温療法

 夜9時からのテレビNHKスペシャル「低体温療法の衝撃」を見て驚いた。日大板橋病院での治療法で体温を32度に保つことで重傷の脳疾患、心疾患患者の蘇生に数多く成功している。

 脳細胞は受傷後、脳の温度が42度まで上昇することでさらに障害が増幅される。低体温を保つことで脳障害から身体を守る。現行の治療法では脳死していくであろう患者が元気に蘇生する様子と、見守る家族の喜びに思わず生きることの尊さを感ずる。

 現在は北里病院他幾つかの病院でも行われているらしい。父の病を救ったかもしれない治療法に見えた。



1997年2月3日 月 雨後曇り  節分

 節分の日で豆まき。床はじゅうたんがひいてある。あちこち豆が飛ぶとダニの原因になるので、小さく、小さく、福は内。外にまくときにははじめはチャコちゃんが小さい声で窓から鬼は外だった。一回くらい大きな声で行こうと言って、最後だけ大きな声で鬼は外と言って窓を閉じてしまった。

 やはり何となく恥ずかしい。子供の頃の記憶をたどると節分の日に近所から大きな声がどちらからともなく聞こえてきたような気がする。今は誰もしていないから恥ずかしい。

 今日は旧正月の日だろうか。何年か前に知り合いの中国人が中国の習慣では正月には爆竹をならすのだが、一月一日に近くの商店街で爆竹をならしていいだろうかと相談を受けた。

 多分誰かに既に相談して、やめろと言われたように見えた。私もそれだけはやめた方がいい、と言った。でも中国ではそうするんです。と随分不満そうだった。

 その後ニューヨークの2月3日、旧正月はチャイニーズデーで中華街の祭りは爆竹の嵐だった。普段ならぶっそうな音だがこの日ばかりはすさまじい爆竹の量だった。爆竹の煙で一帯が火事のように見える程だった。多ければ多いほど皆が喜んでいた。

 無差別にあちらこちらで大量の爆竹が破裂して楽しいことこのうえない。その時彼らはこの楽しさを日本人に 紹介したかったんだとやっと理解できた。こんなに楽しいことは日本でもきっと楽しめる。

 その時白人男性が驚かす目的で中国系老人の歩くすぐ後ろで爆竹を爆発させた。その瞬間白人警官の一人が 目の前で直ぐに彼を逮捕した。私も見ていたがユーモアの域を越えていた。しかし悪いという証明は誰にも出来ない。もうもうと広がる煙の中、わずかないたずらで瞬時に逮捕していった警官は、善悪がはっきりとした確かな動きだった。



1997年2月4日 火 晴    談合事件の報道

 下水道メーター製造業者が談合で摘発された。談合事件は数多いが報道のされかたが「談合」だけでは少しわかりにくい。

 今回競争入札で談合が行われ下水道メーター一個が8000円の値段で落札されたそうだ。談合しなかった頃の値段は5500円だったらしい。全体で40億円の規模だったから50万個入札されたのだろうか。

 すると談合で得た利益は12億5000万円になる。
「談合で何々会社は12億5000万円を不正に税金から搾取しました。そして何々会社に対して各市は12億5000万円の返還請求をしました。」
というくだりになって当然の帰結だ。

 業界ぐるみで街から12億5000万円が盗まれた。談合する業者は12億5000万円を盗んだ集団だと知るべきだ。公金を一円たりとも盗む人はいないはずだ。談合しましたではやはり分かりにくい。いつも仲良くし、和をもって尊しと混同してしまう。



1997年2月5日 水 晴    ペース

 今日は用事もあって帰るのが遅くなった。チャコちゃんは航平を風呂に入れて寝かせた後だった。たいていは私が風呂に入れてチャコちゃんが待ち受けて寝かせるが、全部を一人でこなしたから、普段とペースが違う。風呂に入れて寝かすのは何でもないが、ペースが違うのは気持ちの上で負担になるらしい。食事も遅いし、ゆとりがなくなる。

 よく練習や勉強は少しでも毎日決まった時間にしなさいと言われた。ちっとも出来なくていつも寝る前に、まとめてしていた。自分では迫ってからする方が能率が高いと思った。仕上げる時間は短時間で済むから学習する時間は結果として少ない。だから同じ宿題をしても効果が少ない。

 宝くじで当たる秘訣は何かとミス宝くじが問われて少ない金額でもいつも買うことだと答えていた。結果として購入総額は増える。時々来て贅沢する客より少額でも毎日のお得意さんが大事なのも同じ理由だ。 少しでも毎日するとけっこう量は多くなる。



1997年2月6日 木 晴    歯の治療が終わった

 歯の治療が終わった。診察券と日記を見ると、去年の11月3日から15週間かけて22回通った。すっかり治って無罪放免になった。途中手術をしたり、思わぬ所まで治療をしたけれど、どの歯も欠くことなく元どおりになった。

 チャコちゃんは昨年の5月からかかってまだ三ヶ月に一度ずつ経過観察されている。経過はいいようだ。子ずれママの口コミパワーで集客された患者は私だった。

 チャコちゃんの歯は航平を産むときにいきんで力一杯噛みしめて一番奥の歯が二つに折れてしまったものだ。 無くなると思った歯が手術されて痛みもなく元に戻った。三ヶ月に一度の歯科検診をされているつもりになっている。

 航平の歯は下が二本すっかりはえて上は二本が途中まで出ている。綺麗な歯をガーゼで拭いたり歯ブラシで こすったりしている。自分がした歯の治療での苦労は、辛かっただけに同じようにさせたくはない。なんとか虫歯なしでいって欲しい。



1997年2月7日 金 晴    安定を望む

 赤ん坊は不安定なものを安定的に是正することに執着する。つまり、積み木などで大人が何かを作ると直ぐに壊す。何かの上に人形を載せると引きずり落とす。物質を安定的な状態にしてほっとしている。新聞が綺麗にたたんであればばらばらにしてくしゃくしゃにする。くしゃくしゃにされた新聞は部屋の隅々までなるべく均等になるようにちらかす。

 公園の木々の中などは風雪にさらされて既に安定しているのかちらかす対象もなくて落ち着いている。大人の私たちは部屋がかたづいていないと落ちつかない。子供はかたづいていると落ちつかない。

 テーブルの上に物がのっているのも落ち着かない。ひとつひとつを確かめては下に落とす。落とされては困るから手に届かない所に移動する。航平から見れば嫌がらせ以外の何物でもない。嫌がらせでないことを知らせる方策が今の所見つからない。公園でしっかり遊ぶのがいいかもしれない。



1997年2月8日 土 晴    秋葉原の児童館

 チャコちゃんは午後NECの初心者パソコン無料講習会に行った。昨年購入したパソコンに付いていたので無理やり行って貰った。午後2時半から5時半まで秋葉原のC&Cインフォメーションセンターで6人の受講生がいたそうだ。

 その間私と航平は童夢館に行った。ここにはかんだ児童館がある。ラオックスから程近い所で芳林公園の向かいにある。昨年まで工事をしていたがすっかり新築されて綺麗に出来上がっていた。

 大型のエレベーターに乗って五階に行くと児童館はある。靴を脱いでバギーを置いて中に入ると赤ん坊の遊戯室に案内された。大きな窓の日当たりの良い部屋にブロックで作られた迷路とすべり台が置かれている。おむつを替えるベビーベッドとミルクを作る電気レンジとおしめを洗うような足洗いが設置されている。広いスペースに航平の外には一人しかいなかった。

 卓球大会があって大勢の子供が反省会をしていた。遊んでいる子供は10人くらいだろうか。パソコン(17インチディスプレイNEC、V13は私のより良い。)が三台、28インチテレビ二台に任天堂64とスーパーファミコン。八畳間ほどのスペースのミニ四駆コースがある。工作室は紙やマジックが自由に使える。

 AVルームはピアノ、ギター、もっきん、キーボード、ドラムが置かれていて防音室の中で演奏できる。演奏会用の電動舞台が設置されている。スリーオンスリーが4組できるドッジボール施設と別に卓球が出来る部屋もある。寝転がって読める書籍コーナーもある。広い施設で大半の子供たちはファミコンとパソコンの前で遊んでいた。

 職員に
「設備が充実しているので都内からの研修に訪れる人が多いでしょう。」
と伺うと都内はもとより全国から研修にくるらしい。全国でも最もすぐれた設備を持つ児童館の中の一つだそうだ。

 そう思うと学校一つ程の大きさもある中国の児童館などからみれば大したこともない。しかし、職員がたくさんいて、町の中の小さな施設としては豊かだ。日祭日以外の9時から昼を除く5時まで開いている。千代田区は5万人の人口で23区に市政が導入されれば形式的には村になるほど小さい自治体だが、豊かさは全国一だろう。



1997年2月9日 日 晴    外国語

 来週の土曜日にチャコちゃんの公園友達のレオ君家族がフランスに帰るのでザック君の家で送別会をするそうだ。

 私もどうぞと言われたが遠慮した。知らない人の送別会は気がすすまない。今の所はチャコちゃんと航平で出掛ける予定だ。

 チャコちゃんは日本語以外はあまり話さないが最近ザック君親子と一緒に遊ぶようになってから外国語に開眼している。
「私英語って難しいと思っていたけれど泣かないでねって言うのはDon't cry.って言うだけでいいんだもん。簡単だ。」
と変な所で感心している。いつも遊んでいて心が通じているからすんなりと頭に入っている。

 英語の教育って一体何だったんだろうと良く思う。大抵は3年か6年、あるいは8年、10年と学んでも学校の授業だけで話す聞く読むは身につかない。身に付かないことを知りながら学んでいる。誰だって答案に×ばかりつけられたら、話す気持ちになんてなれない。

 チャコちゃんだってそうだ。それが一言二言交わして一つ一つの文章が生きていればきっと直ぐにも話しだすだろう。頭の柔軟な頃にそんな体験が十分に得られれば一年でも随分身につくだろう。






講習会に行ってチャコちゃんが書きました




1997年2月11日 火 晴後雨    渋谷の児童会館

 建国記念の日だ。家族で渋谷の東京都児童会館に出掛けた。ここは14才の頃アマチュア無線の免許を取った時に一人で来たのが最初だ。免許がある子供は自由に機械を使えたが、後ろで順番を待っていてもなかなか機械は使えなかった。 何時間も待って使えずに帰るばかりで一度もさわれなかった記憶がある。

 昭和39年頃に開館したそうだから、出来てから33年にもなる古い建物だ。私が来た当時と無線室の様子はそれ程変わっていないが今は機械を使う子供の数は減っていて何台かの機械も誰も使っていなかった。

 パソコンはパワーマックと富士通が合わせて三、四十台程あってどの子も楽しそうに遊んでいた。インターネットには接続されていないそうだ。

 子供たちはとても多くて赤ん坊への設備は整っているがあまりにも建物全体の規模が大きくて、混雑していた。一時は設備が古くなって取り残された感もあったが最近になって再び改装されて、活気が戻っている。

 係の人は愛想が良くてあちらこちらから声をかけてくれて 親切だった。喫茶室での飲み物、食べ物は子供向けか、量が少ないが チャーハンは愛情がこもっていて美味しかった。






工作室でクマのお面を作りました




1997年2月12日 水 晴    魔物が住む

 チャコちゃんは航平を連れて実家に行った。自分の持っていたピアノを甥が使うので調律をする日だ。調律司に航平を案内したい気持ちもあって出た。私は一人でいたがこんな時に限ってなんやかやと忙しい。ところで忙しいという字は心が亡くなると書くけれど、実際心ここにあらずですべきことを亡くす事に専念する。でも何のためと考えるとやはりお客様のためであってお客様は神様かもしれない。

 お客様が公益法人や国の時に必ず用意しなければならないものがある。ご存じの方も多いと思うけれど、日付記入なしの、見積書と納品書と請求書の三点だ。その三点には日付を入れてはいけない。

 消費税の切り上げ、切り下げ、四捨五入と、内税、外税の記入方式はそれぞれ、ばらばらで相手先と異なる場合はもう一度記入しなおすこともある。国立の研究所や大学、かつて官営だったNTTの関連企業などそれから公益法人も同じだ。

 その後代金受領の時に御用会社としての登録をしなければならないこともある。そこには銀行に対しての振り込み委任状も含まれることもある。つまり私は物を販売して代金を受け取るのだが相手先の最寄りの銀行に対して私宛に振り込むことを私が委任するようになっている。

 例えてみるとあなたが通信販売のセシールで洋服を買った後、あなたのお金が入っている銀行に対してセシール用代金として、払い出したお金を、セシールが受領し振り込む為の銀行宛委任状をあなたはセシールに請求出来ますか。

 不正防止が目的だろうが、多くの企業はなんの文句も言わずに対応している。もちろん私も文句など言わない。それらの事務を済ませばよいことで何も難しいことではない。担当の人も大抵は感じよくて、それらの事務手続きの煩雑さに申し訳なさそうだ。

 日付なしの書類を請求されるのはきっと監査のためだろう。御用会社としては公益性も要求されるが、要求し要求される間柄で日付なしでお願いしますと言われるのは、お互いに秘密めいている。

 担当の事務官も面倒で、発注者も面倒で、私も面倒だが誰もやめられない。誰か止めてくれないかなとおもっていると、亀島産業のパンフレットの中に見積書、納品書、請求書お断りという文字が昔あった。

 どこでも苦労している。その場合、発注者が自腹で立て替えたりして結局担当者が苦労する。その頃はOCRソフトで独壇場だったからか、最近のパンフレットにはその記載はなくなってしまった。

 一つの物の販売に関わるだけで随分と事務が大変で、その改善は、かかわる者の誰もが出来ない。オペラ座の怪人ではないがきっと魔物が住んでいるに違いないと思っている。



1997年2月15日 土  晴    送別会

 2月12日の夕方から14日の深夜まで日記猿人のページにアクセス出来なかった。接続先プロバイダーに聞くと途中の回線のどこかが混んでいるらしい。今日になって再び接続できるようになった。

 レオ君の送別会にやはり一緒に出掛けた。チャコちゃんの公園友達のみんなの顔と名前が分かった。レオ君家族は日本にいる間地震に合わなくてよかったとしみじみ言っていた。地震の不安を思うと誰もが一緒にフランスに行きたいくらいだ。地震のことを知らないで来日する人も多いようだ。

 ホストのザック君家族は人が良くておおらかだった。7家族が集まったがやはり私も参加して良かった。一人を除いた皆が夫婦で一緒だったから、もしも、ここでチャコちゃん一人だったら、淋しそうだと思った。公園の様子が良く分かったし子供たちが遊ぶ様子も可愛かった。東京も普段の国際化が進んだ。

1997年2月16日 日  雨後晴    我蘭堂

朝から雨の日曜日は昨年9月以来だそうだ。今年になってから雨という雨はほとんど無い。午後になるとすっかり雨もあがって雲一つない青空に戻った。今年の冬は暖かいように感じる。

 お昼のNHKのど自慢を見る。番組途中から鐘の鳴り具合が公平を欠くようになってしまった。いつもあの鳴り具合も楽しみの一つだけれど、今日の鐘は納得がいかない。

 家族で散歩をしながら三軒茶屋まで歩いた。2キロ位で一駅の距離だ。歩いたことがない道を探しながら歩くのが好きだ。途中の住宅街にひっそりと建つ我蘭堂(三軒茶屋1-28-2)という喫茶店は江戸時代から続く三軒の茶屋の中で今も営業している唯一の茶屋だ。大木のうっそうと繁る木の下に何気なくある。ほとんどの人はその由来に気が付かないだろう。現在営業中だから役所でも案内はしない。店の外にも由来の表示は無い。三軒茶屋に住む人でも知らない人はいるのではないだろうか。私も入ったことはない。入りたいと思うときには閉まっていて、今日も休みだった。外見は風流な喫茶店だ。

1997年2月17日 月  晴    抱っこ

 最近の航平の動きは激しくなって、ちっともじっとしていない。抱っこしてかわいいなあと思っていたのが懐かしいようだ。抱っこしても直ぐに下りようとする。下に降ろすと抱っこを求める。

 夕方航平が寝ていたので私だけで買い物に出た。買う物はラップとフィルムの現像依頼、鳥がらスープの素とパンだ。

 出て少しの間、書店で雑誌を眺めていると、チャコちゃんが航平を抱っこしてあらわれた。
「なかなか帰ってこないと思ったらこんなところにいた。」
と大きな声ではあはあ言いながら来た。航平は靴下も履いていない。

 気が付いたら私は30分も外にいたらしい。簡単な買い物で戻ってこないから捜索に来た。航平を抱っこして買い物して帰ったがもう9キロになるから随分重い。外に出ると抱っこされてもおとなしい。産まれた頃静かに抱っこされていた頃を思い出した。

1997年2月18日 火  曇り    子供の風邪

 航平は昨晩38度の熱と咳で一晩中苦しそうだった。朝一番で清水小児科医院にチャコちゃんが連れていった。風邪の診断で薬を二種類貰ってきた。一つはピンク色のシロップ、もう一つは鼻水を止める粉薬だった。ヨーグルトをあげたりしながらシロップを飲ませたが途中からがんとして飲まなくなった。夕方になって少し顔色が良くなったがほてりはある。食欲はいつもどおりだ。

 自分の風邪は何でもないが、子供の病気は風邪でも気にかかる。まだ体が小さくて、意思の疎通が出来ないので、どれくらい苦しいのか分からない。恐らく明日は快方に向かうだろうと期待している。

1997年2月19日 水  晴    考え過ぎないように

 ベイルートで政治活動家たちが拘束された。名前こそよく聞き、活動歴は折りにつけ報道されてきた。チャコちゃんは彼らの考えは全く理解できないと言う。頭がおかしくなってしまったのかしら。とも言う。

 私は学校に行っているときには法律を学んだのだが法律学者にとって途中から自分の考えが変わることはあまり望ましくないような印象を受けた。話すことと実行することが不一致だったりすることも一般には望ましくない印象を受ける。

 ところが実際の生活では言うこととやることがよく一致しない。というよりは言っていることとしていることが正反対ということもある。自分ではずっとこんなことではいけないと思っていたし、今もなるべく言行が一致するようにしたいとも思う。

 拘束された活動家等が積極的に行動していた頃、私たちは近い将来に共産主義に移行するに違いないと中学校の社会科の先生は言っていた。高校の社会でもそう学んだ。大学の教員も多くの人がそう言っていた。その頃の雑誌、朝日ジャーナルなどにもそんな言葉が並んでいた。

 しかし、現実はそうならなかった。多くの人は柔軟に思想の変化をとらえて、今再び将来は共産化するだろうと述べる人は少ない。私自身も学生の頃は共産化するのだろうかと思いながら、なんだか不自由そうだが仕方がないのかなと感じていた。

 結局ほとんどの人の言うことと思想は変化したのだなあと思うときに、今回拘束されたメンバーは言行不一致せずに人生を生きてしまったんだなあと感じてしまう。

 もちろん行った反社会的な行動は許される物ではないが、彼らには彼らの論理が正しくあるんだろうとも思えてしまう。  

 世の中にとって許されることの出来ない行為もそこにどんな理由があったのかを知ると逆にそちらの世界に引き込まれていってしまうような気持ちにもなる。

そんな時は食事を取り、休息し、楽しい時を過ごすことだろう。決して頭だけで意地にならないほうがいい。そんなことをチャコちゃんから教わっている。



1997年2月20日 木 晴   Deng Xiao Ping

 航平の熱は夕方38度8分になってチャコちゃんと一緒に自動車で医院に連れていって、座薬を貰った。前に貰った薬を帰ってから飲むと37度6分まで下がった。元気と食欲はある。

 座薬は熱が下がったので今のところ使っていない。鼻が詰まってせきで苦しそうだ。寝てからもこんこんとせきをすると起きている。  

 中国の最高実力者Deng Xiao Ping氏が今日亡くなった。ニュースは一日中この件について報道している。

 Deng氏で思い出す言葉は
「黒い猫も白い猫も良く働く猫は良い猫だ。」というのがある。

 88年に中国に滞在したことがある。夏の2カ月間、大連市の大連外国語学院で中国語を学んだ。私がその前に大学で中国語を学んだのは73年に日中国交が回復されて、いわゆる中国語が回復後何年間かブームだった頃だ。

 国交正常化後の中国は鎖国が解けた直後で、その地を訪ねた人も余りの体制の違いに驚くばかりだった。

 私が出掛けた88年の直後に天安門事件が起きたが、その頃誰と出会ってもDeng氏の話しが出ると、彼の猫の話しをした。つまり私が出掛けた頃はDeng氏は改革解放の真っ最中だったのだ。

 その後天安門事件の時、日本に在住する中国人たちは、中国に生まれたことを呪っているように見えた。自由がない国の不幸と自由の有り難さを口にしていた。そして10億の民は無事に今まで飢えることなく安全に着実に豊かになっている。

 体制の違いはあるけれど、Deng氏は立派な人物だと述べていたのは中国人以上に中国人の回りにいた日本人だった。10億の民が一時に体制を変更することは難しい。

 平和の為にはやはり徐々にしか変わることは出来ない。Deng 氏は着実に間違うことも少なく最後まで国民を導いたように見える。



1997年2月21日 金 晴   立てる

 航平の熱は下がって元気を回復しつつある。せきがひどくて鼻水が苦しそうだ。食欲はある。薬を飲むのは嫌がるがアイスクリームにまぜて与える。

 最近航平は少しだけ立てるようになった。ぶた公園の階段を一人で登って頂上に行けるが、今までの立つ様子は5秒位で、
 「あっ立ってる、どうしたんだ、何だろう」といった面持ちだった。

 夜、チャコちゃんが航平のそばにいて私に見て見てと言うので、何かと思うと一人で航平が立ってテレビを見ている。5秒、10秒、20秒。まだ、立っている。

 30秒位だろうか、何回かやってみたが立っている。せきをゴホゴホして、テレビの時代劇を見ている。本人は立っているのが嬉しいようでもないし、自慢している訳でもない。なのに私自身が何故か嬉しいような気持ちになってくる。

 リタさんからお見舞いに、野菜ジュースとマカロニを貰って、来週のひな祭り会には必ず来てねと言われたらしい。



1997年2月22日 土 晴寒い   文章と現実の違い

 今年一番の寒さだ。航平は風邪もだいぶ良くなってきたが家族とも一日家のなかで休んだ。夕方、チャコちゃんが買い物に出て、帰ってくるなり今日は寒いと言う。この寒さは体験した方がいいと言われて自分も買い物に出てみた。

 きんきんするような寒さだ。温度はマイナス一度くらいだからとても低い温度ではない。しいて言えば昨日より10度くらい低いのがこたえる。

 ところで、こうして書いている家族の様子がチャコちゃんから見るとだいぶ実際の様子とかけ離れているように見えるそうだ。私としてはなるべく正直に書こうと思うが、どうも、やはり違うらしい。事実のとらえ方の違いがどうにも納得が行かないことが多いらしい。

 それならチャコちゃんも一緒に書いて二人でやろうと言うが、育児に忙しくてそんな気持ちにならないらしい。

 それで同じ立場に置かれている人と話しを聞いてみたいとも言う。全般にこの文章では私がとても優しくてなんでも手伝ってくれているように見えすぎるのが不満らしい。

 どれ程手伝っているのか自分には分からないが、今のチャコちゃんはもっと手伝って貰いたい気持ちを持っていることは良く分かっている。ところが際限がないような気もするのが私は恐ろしい。やはり航平の風邪が治って週末は家族揃って外出した方が楽しい。



1997年2月23日 日 晴   罪の理由

 駒沢公園に家族で散歩をする。何日か外に出ていないので航平にとっては待望の散歩だ。万全ではないが少し外の風にあたる方がいいと思った。

 夜になって昼に放映された深作監督のドキュメンタリー番組を見た。食べることに焦点をあててエイズ患者、従軍慰安婦を撮しだす。

 今まで従軍慰安婦のテレビ映像は通常恨みと怒りを表現したものが多い。ここでは慰安婦を訪ねて食事をいただく場面や、共に食べるシーンが中心に据えられている。真実の訴えや心の奥底が食べる行為の合間に表現される。食べることは喜ぶことであって、本能にかかわる時の言葉は人を引き込む。

 番組を見ながら思ったのは、番組とは直接関わりがないことだが、人は誰も、罪が深いということだ。どんな人も罪を犯してしまう。そして人生を終わる頃、おろかにも、罪を犯せば人は苦しむことを知る。だから人は罪を犯さずに人生を過ごすことが楽だと知る。罪を犯してはならないことに対して理由はない。罪を犯してはならないのは経験から知った、人の知恵なのではないだろうか。



1997年2月24日 月 晴   泣き声

 航平の風邪は大分良くなったが、チャコちゃんに風邪がうつってしまった。せきをして咽がいたいようだ。

 午後からのひな祭りパーティには参加出来ないので、二人は医院に行って家に閉じこもっていた。上の階から航平がとてつもない大声で泣き出す声がして、インターホンが鳴ってチャコちゃんが早く来てえと叫んでいる。

 走って階段を上がっていくと航平が手をサッシの窓に、はさんだらしい。怪我は無くてすりむいただけだったが、泣き声の大きさとチャコちゃんの悲鳴に驚いた。無事に大人になるまでこんな心臓が縮まる思いをどれだけ味わうのだろう。



1997年2月25日 火 晴   ハローページのCD-ROM

 NTTのハローページのCD-ROMが先週届いてから、しばらく使ってみると、なかなか使いやすい。言い出せば、きりが無いほど変なところもあるが無料でこんな便利なソフトを送ってくるのは有り難い。残念ながらマック用はない。

 ウィンドウズ95を使って三ヶ月になる。マックを使っていて一番厭なのは出るソフトにマック版がないケースがあることだ。いいと思うソフトがマックになくてがっかりすることは多い。しかし、しばらくするといい物ならマック版も出るし、逆にマックならではの良いソフトもあるからお互い様ということで納得もする。しかし少数派の苦しさはぬぐえない。

 そしてマックの関連商品は全体に値段が高いことが不満だ。例えばOCRソフトはまあ使えそうに見えるものは10万円以上にもなる。ウィンドウズ用の商品はどれも競争が激しくて色とりどりだ。

 マックOSとマック用ソフトはウィンドウズOSやウィンドウズ用ソフトに比べて未だ一歩も二歩も進んでいて、はるかに使い易い。



1997年2月26日 水 晴   バーコード

 バーコードというのがある。手元の水道用部品を見ると493987840012という数字が書かれて、その上に細い線と太い線とで、模様が描かれている。

 49というのは日本を意味する。39878というのは会社の番号でコードセンターで管理されている。40012というのは商品番号で会社が自由に設定できる。

 バーコードの取得は簡単で通産省の外郭団体だろうか、流通コードを扱う財団法人に申し込むと誰でもお金を支払ってすぐに取得できる。小さい会社なら3年で10300円だ。一般商品のバーコードのことだが、書籍は別の団体が管理している。

 3年前にバーコードの取得をして、先日更新の案内が来た。今、商品は店頭に置かれていないので一時廃止したいと申し出た。すると廃止する場合は番号にかかわらず再取得が難しいらしい。それでも再取得を希望する場合は以前取得した番号を使用しなければならない。そして、廃止してから再取得するまでの期間分の料金を支払う必要があるそうだ。結局、事実上廃止はできない。

 バーコード、行きはよいよい帰りはこわい。一度入れば抜けることは難しい。独占状態になるととんでもない言い分が通ってしまう。

写真 チャコちゃんと「ぶた公園」での友達 2月15日送別会



1997年2月27日 木 晴   合格通知

 チャコちゃん宛にみっちゃんから子供が高校受験に合格したという葉書を貰った。人のことなのだが喜びをプレゼントして貰った気分だ。

 希望をもって努力して夢がかなうのは誰にとっても共通の喜びだ。私の家の横の道は駒沢大学の学生が毎日歩く通学路になっている。つい先日も受験生が大勢通っていった。春になると合格した新入生が再び同じ道を通る。

 合格して夢を達成した学生は更に次の夢に向かって努力と達成の喜びを味わって欲しい。車の回転のように、何度も何度もこの喜びはやってくる。





1997年2月28日 金 晴   寝る子は育つ

 航平の風邪から、チャコちゃんにうつってから約10日間ほとんど外で遊んでいない。チャコちゃんの風邪はだいぶよくなってきた。  

 外で遊んでいないからか、航平の生活のリズムは少しずつずれている。たった今午後11時に夕食を食べてお風呂に入れたところだ。午後6時頃からずっと寝ていた。

 赤ん坊が寝るのは知っていたがこれ程寝るのにはあらためて驚く。一才になろうとしているが普通は午後9時頃寝つく。朝は7時頃起きる。昼前11時頃から2時間程寝る。夕方も1時間程寝る。一日12、3時間寝ている。

 寝る子は育つと言うけれど、更に偉大だなと思うのは寒い外にいても寝るし、ぐっすり寝ている時にはバギーから降ろされたり洋服を脱がされても寝ている。大人ならちょっとつつかられると起きてしまうのに、テレビの音にも負けずに寝ている。

 寝てくれることは有り難いことだ。「寝る子は育つ」という言葉は寝ている時の親がほっとする気持ちへの誉め言葉ではないかなと思っている。


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